- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県柳井市
- 広報紙名 : 広報やない 令和7年7月10日号
■毛利軍の防長侵攻(7) 楊井津の対応
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回紹介したように、大内配下であった神代(こうじろ)忠謙(ただかね)は小早川軍(毛利軍)の侵攻に際して抵抗せず、小早川軍に従属しました。
神代忠兼の先導により、小早川軍の船団は大畠瀬戸に向かいます。幣振島(へいぶり)じまから般若寺の峰をめざして船を進めました。そのコースならば渦巻く瀬戸の難所を無事に通過できると言われていました。般若寺が「しるべ」になったことから、後に小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)は、「般若寺の御利益によって危険な海峡を無事通過できた」と感謝し、多額の寄進をしました。船団は波静かな湾に進み、楊井(やない)(柳井)津に入港します。
楊井津は大内政権域の東玄関にあたり、大内軍の軍港としての役割を果たしてきました。また日明貿易にも関係した港でした。その楊井津を支配する代官は、大内の重臣である仁保(にほ)氏が勤めていました。楊井津は完全に大内の支配下にあったのです。毛利側の小早川軍船団が迫ってくるにあたって、楊井津の豪商たちは、小早川軍を受け入れるか、それとも抵抗するかで、喧々諤々(けんけんがくがく)の協議を幾度も重ねました。豪商たちの耳には、小早川軍が由宇、日積、伊陸の村々を鎮撫(ちんぶ)した状況や、神代氏が恭順(きょうじゅん)した情報が順次もたらされました。とくに伊陸での残虐行為を聞いて、もはや抵抗が叶わないことを理解して、歓迎しようと決議します。
楊井津の統治実務を担っていたのは地侍の楊井氏で、古くから地頭として根を張っていました。大内配下の楊井氏が所有していた領地を毛利元就はいったん取り上げましたが、味方に組みすれば新たな領地を安堵(あんど)(土地の付与)すると約束しました。楊井武盛(たけもり)は小早川軍西進の一翼として防長侵攻に戦功をあげ、美祢郡の秋吉別府に30石の地を安堵されます。したがって楊井武盛は楊井の地を離れて美祢に移住しました。また同族の楊井隠岐(おき)には、玖珂郡の南桑(なぐわ)に8貫の新領地が与えられ、楊井隠岐は南桑に移住しました。こうして楊井氏は、楊井の地から姿を消したのです。
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