- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県柳井市
- 広報紙名 : 広報やない 令和7年9月11日号
■毛利軍の防長侵攻(9) 琴石山城の特徴
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回は、小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)の家臣であり、琴石山に城を築いた正覚寺(しょうかくじ)守恩(しゅおん)を紹介しました。今回は、城の強固な構えについて触れていきます。
琴石山連峰は屏風を立てたように、急峻な稜線(りょうせん)が東西方向に長く延びています。あたかも鶴が翼を広げて楊井(柳井)を守っているかのようです。小早川隆景は、その急崖(きゅうがい)に囲まれた琴石山に城を築きました。現地調査をすると峰々の10か所に郭(くるわ)が設置されていました。標高545mの山頂に主郭(しゅかく)を設け、その東側に5郭を配し、西側に4郭を配していました。瀬戸内海を渡って楊井に迫って来る敵がどの郭からも発見できます。9合目付近にある現在の駐車場から少し登ると、東端の郭があります。敵が攻め登って来た際に最初に衝突する表門にあたり、大きな方形の自然石を2段に重ねて堅固な守りにしています。さらに上って主郭の手前まで行くと狭い尾根上に、幾つかの穴が1列に掘ってあります。硬い岩盤を穿(うが)っています。その穴に小早川の軍旗を立てたものと考えられます。麓から登って来る敵に対して、はためく小早川の軍旗を見せつけて威嚇(いかく)したのでしょう。また稜線には凹凸地形がありますが、凹部に橋を架けていました。橋脚の柱穴が残存していることによって判ります。戦闘になった場合にはその木橋をはずして、敵を寄せ付けない仕組みにしていました。
それにしても標高が500m以上もある急崖(きゅうがい)の琴石山に築かれた山城に、敵が挑んでくる可能性はあるのでしょうか。連戦連勝の小早川隆景にしては必要以上の警戒ぶりです。隆景は一体誰を恐れたのでしょうか。その強敵は豊後国の大友義鎮(よししげ)(宗麟)です。キリシタン大名となって外国と交易をし、大砲などの最新鋭の兵器を装備していました。しかも大内義隆の後座に養子としてすえられた大内義長は、大友義鎮の実弟です。小早川隆景が大友軍の襲撃を警戒したはずでした。琴石山に堅固な防衛施設を築いたのですが、結果的に大友軍は動きませんでした。
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