文化 [令和版]山城作業日記 河後森城(かごもりじょう)からこんにちは -15-

河後森城では、麓から攻め上がる敵兵に対して、いかに城山を登らせないかを考えて周囲に様々な防御的な仕かけを設けていましたが、その一方で城内への生活物資の運搬や援軍の往来を支えるための道も整備されていました。
ただし、その道に何の備えもしていなければ、真っ先に敵が利用してしまうことになります。このため、特に山上の曲輪(くるわ)(平坦部)付近では、道沿いに城を守るための作事(さくじ)(=建築工事)を施しました。
例えば、発掘調査を行った西第十曲輪では、隣の西第九曲輪との間に、幅2メートルほどの道が設けられていたことが判明しましたが、その道をちょうど登りきったところに2本一対となった柱の穴を確認しています。これは棟門(むなもん)と呼ばれる、2本柱で扉と屋根が付いた城門であったと考えられます。
さらにこの門の周囲には、土塁(どるい)や塀(へい)がめぐっていたことが推定でき、城内へと安全に通行するための道が使われていたのと同時に、敵からの進攻にも警戒が注がれていた様子がわかります。
(続く)