文化 [新]香美史探訪記

■第52回 城の役割

物部川筋には、戦国時代の城塞と言われる遺構が二十いくつか知られている。城塞遺構と八幡社、菩提寺跡がそろえば、集落を治める長が侵略に備えた砦があったと考えられよう。八幡社は、武人の崇敬篤い源八幡太郎義家の武勇にあやかろうとする社であり、菩提寺は、先祖の働きに感謝し、慰霊を行う場所であった。
一方で、物部川の断崖を使い、空濠(からぼり)や土塀・板塀を備えた「城址」と言われる十坪前後の遺構も存在する。深渕、雪ヶ峰、佐岡、五百蔵、吉野、永野、清爪などである。この遺構は、戦いに備える一面を持つものの、河川舟輸送や木材流しを指示監督するものだったかと疑われる。平城は木造板葺きか杉皮葺き、石垣や瓦屋根は無かったらしいので、冬季に火箭(かせん)を射ち込まれると弱いものであったであろう。
一つの仮説を提供する。戦国時代は、現地盤より3メートルほど低いと考えられる。物部川はもう少し緩やかな流れで、川舟は重要な交通手段、川人と呼ばれる舟や筏を専門とする職業があったようで、江戸期の団平舟で馬背の陸上輸送の十頭分ほどの能力があったらしい。室町時代後期には、守護細川氏が土佐の産物を大坂で販売し、船の帰り便で京大阪の文化が土佐に入った。韮生や槇山、山田郷の産物が、途中で荷抜きなどの不正が行われないように監督する必要があって、監視砦を置いたと考えるとどうであろう。平安時代の昔から都へ庸人で出た者に、頻繁に「人返し令」が出ており、盗賊や山賊、海賊も横行していたことは知られている。荷物や金銭の中間搾取は世の常。物部川に限らず川運搬は盛んで、奈良盆地の大王家には大和川が使われ、京都の天皇家や貴族には淀川が使われ、監視場もあったようである。
物部川筋の産物(米・炭・杉板・檜皮や杉皮・乾燥農産物)木材、人の往来が下舟し、塩や布、生活必需品は上舟で持ち込まれ、豊永郷や祖谷へも流通した。陸上輸送の馬背や荷車曳きは、馬が農耕に使われた鎌倉時代以降の補助輸送だった。水運輸送には、各所に関所が置かれ、関銭と呼ぶ通行料が徴収された。瀬戸内は、下関や上関の名称に残る。物部川谷の主要産物の杉檜は、増水期には大栃から筏で流し、減水期には一本流しで神母木や談議所で筏に組んだであろう。現在の単価で50万円の杉一本が不明になることは許されない。この川交通を監視する砦がシロと呼ばれた。物部川段丘の端で視通を確保して管理するのは、地方豪族の重要な任務であった。
(香美市文化財保護審議会・岡村)