- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和7年8月号
◆官僚・政治家・実業家として活躍
安広伴一郎(やすひろともいちろう)
安広伴一郎(安政六年(一八五九)~昭和二十六年(一九五一)は、村上仏山の妻・久の甥にあたり、『仏山堂詩鈔(ししょう)』の出版に尽力した安広仙杖(せんじょう)(紫川(しせん))の長男である。仏山の開いた私塾・水哉園には明治六年(一八七三)に入門している。
明治八年(一八七五)、上京して福沢諭吉の慶応義塾入学、明治十一年(一九七八)には末松謙澄の支援により香港に留学。帰国後は山県有朋(やまがたありとも)の知遇を得て、更にケンブリッジ大学に学び、明治二十年(一八八七)に法学士の学位を得ている。
明治二十一年(一八八八)第三高等中学校(現在の京都大学総合人間学部・岡山大学医学部)教員に、その後官僚となり、明治二十三年(一八九〇)内閣書記官、内務・文部・逓信(ていしん)各省を経て明治三十一年(一八九八)内閣書記官長になる。当時伴一郎は有朋の側近中の側近といわれた。ちなみに伴一郎の妻は有朋の義妹にあたる。
その後の経歴も豊富で、貴族院勅選議員、農商務総務長官、製鉄所(八幡)長官、法制局長官、内閣恩給局長を経て、大正五年(一九一六)には枢密顧問官。大正十三年(一九二四)六月に南満洲鉄道株式会社の社長に就任し、昭和二年(一九二七)七月まで務めている。このように安広伴一郎の中央での活躍は謙澄に勝るとも劣らぬものがある。
晩年の伴一郎は神奈川県に住んだ。昭和五年(一九三〇)、『豊前人物志』(昭和十四年刊行)の著者山崎有信は伴一郎の実父「安広紫川先生」について詳しく知りたいと便りしたが、氏の謙遜なる、只僅かに次の回答に接するのみ。
「拝復愚父の履歴のこと御尋に御座候所……何等材料も無之候……」伴一郎の謙虚な人柄が偲ばれる。
文豪・森鷗外も明治三十三年の『小倉日記』の中で安広紫川と伴一郎、その弟・亥三郎に触れている。
(村上仏山・末松謙澄顕彰会 德永文晤)
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