- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和7年11月号
◆済生救民の医師 加藤時次郎(かとうときじろう)
◇水哉園から世界へはばたく
加藤(加治)時次郎は、安政五(一八五八)年一月一日、現在の田川郡香春町に蘭医(らんぽう)の次男として生まれた。明治三(一八七〇)年に開校した豊津藩校育徳館への入学を志したのだが、士族以外に門戸(もんこ)が開かれていなかったため、明治五(一八七二)年、十四歳で水哉園に入門した。
長崎医学校、警視医学校、旧東京大学医学部予科(中退)、済生(さいせい)学舎に学び、二十六歳の時に医術開業試験に合格。明治二十二(一八八八)年、ドイツに留学し、バイエルン州のエアラゲン大学で医学博士の学位を得て、翌年にベルリンで開かれた第十回国際医学会に北里柴三郎らと出席した。
◇堺利彦と親交
帰国後、東京に加藤病院、横浜と小田原に分院を開設し、後に平民病院と改称した。社会問題への強い関心から「万朝報(よろずちょうほう)」という新聞社の社会改良団体・理想団に加わる。そこで同紙の記者として健筆をふるっていた、みやこ町出身の思想家・堺利彦(旧制豊津中明治十九年卒)と出会い、生涯親交を結んだ。日露開戦の危機が迫っていた明治三十六(一九〇三)年、堺利彦らが非戦論を掲げた「平民新聞」を創刊した際、加藤は創業費七五〇円を提供。物価指数で換算すると現在の約二八〇万円に相当する。
◇済生救民に邁進
加藤時次郎はその後、横浜、浅草、四谷、大阪に実費診療所を開設し、低所得者層への医療サービスの提供と拡充に努めた。実費診療所の賛助者には、水哉園の先輩、末松謙澄も名を連ねている。この他にも豚汁、飯、沢庵(たくあん)を一食十銭の低価格で提供する平民食堂など様々な社会事業を展開した。昭和五(一九三〇)年五月三十日、東京で死す。済生救民に邁進した生涯だった。
(村上仏山・末松謙澄顕彰会 小正路淑泰(こしょうじとしやす)
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