- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県筑紫野市
- 広報紙名 : 広報ちくしの 令和7年2月号
■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。
■地面(じめん)を這(は)うて 生(い)きる人間(にんげん)が好(す)いとる
そのだ ひさこ
「部落問題」に出会って、60年余が過ぎた。その出会いは大きく私の人生を変えたように思う。それは「人」に出会ったからである。
「福岡県人権研究所(前身は福岡部落史研究会)」は50年前に創設された。井元麟之さん(元全国水平社書記局長)はこの研究会を発足させた大黒柱だったが、その井元さんと熱いタッグを組んで江戸時代の古文書を読み解き、次々に研究論文を発表しつづけた中核は、松崎武俊さんだった。彼は警察官として働きながらも部落史の研究・独学者でもあった。「部落史を学び研究する目的は、(中略)部落解放への展望を明らかにしていくための学びであり研究であらねばならない」というのが彼の主張だった。
初代から部落史研究会の同人であった私は、被差別に寄り添ったつもりだけの、必ずしも史実に基づいていない授業に、松崎さんからたびたび鋭い指摘を受けた。江戸時代の古文書を読み解き、皮革業や部落農業の「誇りうる労働の実態」を次々に明らかにした彼の問題提起は、「差別と貧困」の歴史から「生産と労働」の歴史への転換であった。何か解らないことを尋ねると、ポンポンと頭を叩き、いつもストン!と答えていた。その姿は、「まるで打出の小槌(こづち)のような、底知れぬ知識」と言われていた。
彼は、詩人でもあり、この世に3冊の絵本を残した。『菜の花』、『牛のかたき打ち』、『カンテラ』。『菜の花』が出版されたのは昭和54年2月。彼はこの絵本出版の後の11月、突然がんで亡くなった。その衝撃、悲しみ、その無念。
部落問題の教科書記載は昭和47年だが、現場にはいまだどんな教材もない時代、私たちは『菜の花』や『牛のかたき打ち』などに飛びついて授業したことを記憶している。
『菜の花』は古老の聞き書きをもとにした絵本で、被差別身分には禁止されていた酒屋に入って、角打ち酒を一気に飲みほして死罪となった若者の話。「死んでも男はさくら色たい。さあ、切ってくれ!」という最後のセリフは、人間としての命がけのあふれる勇気を表した絵本である。同じく伝承をもとにした『牛のかたき打ち』は、飼い主を角で突き殺してしまった牛の処刑の話。牛を処刑する「突き人」が牛を突いてもなかなか死なず、やがて見物人たちは「突け、突け!」と叫びだす。とうとう牛が死んで、辺りが静まり返ると、見物人が「むごか、あげなこと、せんでもよかろうに」と言う。処刑する人(差別される人)と処刑を命じる人(差別を命じる人)と見物人(差別する人)の三者の差別構造が見事に図式化されている絵本。
農民、炭鉱夫、被差別部落の人々など「わしゃ、地面を這う(はう)て生きる人間が好いとる」といつもニッと笑っていた独学者、松崎武俊さんの精神を大切に今後とも受け継いでいきたい。
■生産と労働の歴史
現在の社会の教科書は、被差別の立場に置かれていた人々について「荒れ地を耕し年貢を納めたり、すぐれた技術をつかって生活に必要な用具をつくったり、役人のもとで治安をになったりして、社会を支えました。また、古くから伝わる芸能を盛んにして、後の文化にも大きな影響をあたえました。」と記載されています。また、解剖図「解体新書」の作成には、「すぐれた技術や知識を生かして解剖を行い、人体の説明をしたのは、当時の被差別の立場に置かれた人でした」という説明がされています。
学校では、これらのことを絵図を使って、当時の人々の仕事や役目を説明しながら社会を支えていたことを教えています。
問合せ:教育政策課