文化 太宰府の文華~公文書館だより(137)~

■武藤資頼(むとうすけより)の裁判

鎌倉幕府が九州に設置した守護は、通常の守護とは違い裁判を行うことが許可されました。ただ裁判と言っても最終判決ではなく、現代の地方裁判所のような役割と考えられています。筑前(ちくぜん)・豊前(ぶぜん)・肥前(ひぜん)3か国の守護だった武藤資頼も、その政庁の宰府守護所(さいふしゅごしょ)において裁判を行いました。今回はそのうち、肥前国の武雄社(たけおしゃ)(現佐賀県武雄市)における争いを裁いた事例をご紹介します。
武雄社は府社(ふしゃ)と呼ばれる大宰府直轄の神社で、その神官の長である本司職(ほんじしき)の地位をめぐって争いが繰り返されました。始まりは平安時代末期の12世紀中頃、本司職を相続した藤原貞門(ふじわらのさだかど)と、その弟貞永(さだなが)らが争い、大宰府が裁定して貞門が勝訴しました。以後、本司職は貞門から子の守門(もりかど)、孫の家門(いえかど)へ引き継がれましたが、出家して蓮妙(れんみょう)と名乗った貞永との対立は解決せず、鎌倉時代の13世紀初頭に再燃します。
元久(げんきゅう)元(1204)年、家門は幕府に訴え、幕府の指示で宰府守護所にて裁判が行われます。被告の蓮妙は取り調べを拒み、法廷にも出頭せず、9月には家門を本司職とする判決が出されました。しかし蓮妙は大宰府に訴え、11月に蓮妙の勝訴という正反対の判決が出されます。大宰府の判決を出したのは、武藤資頼ら現地の役人ではなく、京都にいる上司の大宰大弐(だざいのだいに)らだったようです。両所の判決が食い違ってしまい、決着がつきませんでした。
建永(けんえい)元(1206)年、蓮妙は先の宰府守護所の判決に抵抗し、屋敷に兵を入れて守りを固め、7月頃には幕府に訴えて自分を本司職とする判決を得ています。対する宰府守護所も幕府に訴え、9月に家門を本司職とする判決を獲得しました。ここでは判決を幕府が一度逆転させ、さらに元に戻しています。その後も争いは続き、双方とも代替わりして家門の子能門(よしかど)と蓮妙の孫実直(さねなお)の裁判へと移行していきます。
このように長きにわたる武雄社の裁判の中で、資頼の宰府守護所は第一審の役割を果たしましたが、判決は後に大宰府や幕府により二転三転していった様子がうかがえます。

太宰府市公文書館
大塚(おおつか)俊司(しゅんじ)
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