文化 〔戦後八十年 特別企画〕この記憶を、あなたへ。(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県宮若市
- 広報紙名 : 広報みやわか「宮若生活」 No.235 2025年8月号
「鹿児島県・久志湾の沖。
陸軍輸送船『馬来(マレー)丸』が魚雷により沈没し、
約千五百人の命が奪われたその海に、父はいたのです。」
そう話すのは、宮若市に暮らす野見山 正(のみやま ただし)さん、九十二歳。
十一歳のとき、出征する父・大作さんを見送りました。
大作さんの戦死公報が届いたのは、終戦の二年後。
詳しい死の場所も状況も分からぬまま、家族は長い戦後を生き続けてきました。
「戦争が終わったからといって、苦しみが終わるわけじゃなかった」。
長男として家を支えるため学校を諦め、家族の柱となって生き抜いた日々。
私たちはこの記憶とどう向き合い、次の世代に何を残すべきか。静かに問いかけたいと思います。
◆Part.1 父を見送った11歳、父の名をたどって
92歳になってたどり着いた “父が眠る海の記憶”。
「泣く暇なんてなかった」
終戦の前年、父を見送った当時11歳の野見山 正さんは、母の死を機に家族を支えるため、中学校を中退し、働き始めました。
そして終戦の2年後に知らされた、父の戦死。
戦後80年を迎えた今年、野見山さんは父の“本当の最期”を知り、父が眠る海を訪ねました。
そこで父に伝えた一言には、長年の思いが込められていました。
◇泣く暇なんてなかった
「父を見送ったのは、私が十一歳のときでした。終戦の一年前、昭和19年8月に出征する父を、家の前から見送りました。」
そう話すのは、市在住の野見山正さん九十二歳。父・大作さんが戦地に赴いてから約一年後、母・イチさんが病気で亡くなり、残されたのは祖母と姉と二人の妹。当時中学二年生だった野見山さんに、悲しむ暇はありませんでした。
「父は、私たち子どもを自由に遊ばせてくれる子煩悩な人でした。近所の人からは『大ちゃん、大ちゃん』と呼ばれ、みんなから愛されていました。そんな父が出征すると知った時は、ただ悲しいというよりも、『父がいないこの家を、自分がなんとかせないかん』、という気持ちが大きかったですね。長男として、そんなふうに心が先走っていました。
父が出征して約一年、終戦から二カ月後に母が亡くなりました。その時も、『自分が頑張らんと』と、思っていましたね。それからは、学校に通うのをやめて、竹のほうきを作って売ったり、山で仕事をしたりして、何とか生活費を稼ぎました。泣く暇なんてなかったですよ。
父の戦死公報が届いたのは、終戦から二年後でした。当時は、『母が生きている内に、せめて戦死したことを知ってほしかった。なんでこんなに遅くなったんだ』と、悔しい気持ちでいっぱいだったのをよく覚えています」。
◇父が亡くなった本当の場所
父の足跡をたどることはできないのか。野見山さんは四十年以上前、沖縄県糸満市を旅行で訪れた時に、戦没者の慰霊碑に父と同姓同名の名前が刻まれているのを見つけ、その後何度も沖縄へ足を運び、慰霊を続けてきました。
「糸満市にある平和祈念公園の平和の礎に父の名前を見つけた時は、『なんで沖縄なんだろう』と、思いましたね。父は陸軍入隊後に現在の中国東北部・旧満州に行っていたはずなんです。しかし、沖縄の慰霊碑には父の名前が書かれているので、軍の中で配置転換などがあって、沖縄に来たんだと思っていました。
それからは、数年に一回のペースで福岡県沖縄地域戦没者慰霊巡拝に参加し、父の慰霊を続けていたんです。
そして、今年の1月。年齢的にも最後の慰霊巡拝だと思い参加した時、テレビ局からインタビューを受けました。私が参加者の中で最高齢だったからですかね。そこで父の話をしたところ、沖縄戦と父が亡くなった日が合わないことにテレビ局の人が気づき、教えてくれました。そこから、父の軍歴について調べていくと、父が亡くなったのは沖縄ではなく、鹿児島県南さつま市坊津町の久志湾沖だったことを知りました。父は、旧満州から帰国後、馬来(マレー)丸という船に乗り門司港からフィリピンに向け航行していた時に、魚雷攻撃を受け沈没し、亡くなったようです」。
◇今まで頑張ったけん、褒めてください
「今年の4月、娘が私を現地に連れて行きたいと言ってくれ、私も父の眠る海を自分の目で確かめたいと思い、家族四人、そして亡くなった妻の遺影と共に、坊津町に向かうことにしました。
現地を訪れると、馬来丸戦没者慰霊碑が建っており、そこには父の名前が刻まれていました。もうちょっと早く分かっていれば、一年前に亡くなった妻も連れて行けたのにと思いましたね。そして、父に向かって『本当に長かったね。八十年も捜しきらんで。これが私の母ちゃん(妻)。もう亡くなった。今まで頑張ったけん、褒めてください』。それだけを伝えて、そこを後にしました。
坊津町の海岸には、馬来丸沈没後、多くの人が流れ着いたみたいです。その中には、生きている人もいれば死んでいる人もいて。坊津町にある廣泉寺(こうせんじ)さんは、その流れ着いた人たちを看病したり、遺体を安置したりしていたそうです。
廣泉寺さんは、馬来丸が沈没した1月25日以降、三代にわたって毎年法要を行っていて、馬来丸にも詳しく、当時の様子を聞くことができました。父の最期を知れて、満足しました。満足と言ったらいけないですが、とても納得がいきました」。
◇時系列
・昭和19年8月
父・大作さん36歳で陸軍に入隊し、旧満州へ
・昭和20年1月
馬来丸、魚雷により沈没
・昭和20年8月
終戦
・昭和20年10月
母・イチさん逝去
・昭和22年3月
父・大作さんの戦死公報