文化 〔戦後八十年 特別企画〕この記憶を、あなたへ。(2)

馬来丸は兵員千九百三十九人、軍馬百十三頭、自動貸車(じどうかしゃ)二十三輛(りょう)、大発(だいはつ)四隻(せき)、ゴム船艇(せんてい)六隻その他軍需用品を乗せ、昭和20年1月23日、午前5時、フィリピンに向け門司港を出発し、伊万里湾(佐賀県)に仮泊。翌日、24日に相崎瀬戸(長崎県)を通過し、鹿児島に向かいました。25日午後1時50分、見張員が突然「雷跡」と、絶叫すると同時に、右船端(ふなばた)に第一弾魚雷が命中。船を陸地に上げるべく舵を取るが、その間に第二弾の魚雷が船橋下に命中。午後1時53分、完全に海中に沈みました。(馬来丸事故報告書より)
この報告書を記したのは船長・吉田清さん。当時、海は波が高く、視界も悪い中での悲劇でした。救護作業は翌日26日まで続けられましたが、兵員千九百三十九人のうち救助されたのは、わずか四百七十四人。約二十四パーセントの生存率にとどまり、生存者の手記では、まさに地獄のような光景だったと語られているものもあります。
沈没からしばらくの間、海には生存者や遺体が漂い、坊津町など付近の海岸に流れ着きました。陸に流れ着いた遺体は、地域の人によって仮の埋葬が行われ、生存者はお寺を中心に、各家庭での看護も行われました。爆発音を聞き、岸辺からその様子を目撃した住民たちの記憶は、いまも地域に深く刻まれています。

◆Part.2 戦争の記憶を風化させないために
兵員1,939人を乗せた輸送船の悲劇は、いまも静かに語り継がれています。
生存率わずか24%。
その凄絶(せいぜつ)な記憶と、救助を阻まれた地元住民の悔しさ。
そして、命を救われた人々とその家族の思いが、毎年続けられる法要の中で今も生きています。
記憶を風化させないために、祈りを絶やさず受け継ぐ人の姿がありました。
その記憶を守り続けているのが、鹿児島県南さつま市坊津町久志(ぼうのつちょうくし)にある廣泉寺。
4代目住職・大八木 宗司(おおやぎ そうし)さんに、語り継ぐ意味と責任を伺いました。

◇あの日、真冬の海に沈んだ命の記録と記憶
「午後1時50分頃『ドーン!』って、海からすごい音がして、坊津町のみんなが『何事か』って飛び出したら、沖の方で大きな船が沈んでいくのが見えたんです。これは大変だってことで、助けに行こうとしたんですけど、軍の人が来て止められたんです。『行くな』と。当時を知る婦人からそう聞いたことがありました」。
大八木さんはそう語り始めました。
「馬来丸が沈没した昭和20年1月25日って、とても寒い日だったそうです。このあたりでは珍しく、小雪もちらついてたみたいで。海は真冬で冷たく、流れ着いた人たちは四時間以上、を漂っていたそうです。もしあのとき、すぐに助けに行けていたら、もっとたくさんの命が助かったかもしれないって、今でも地元の人は悔やんでいます。
海岸に流れついた人たちが寝ないように、子どもたちが耳元でずっと声をかけ続けていたみたいです。『寝かせるな、寝たら死ぬ』って、先々代の住職であるうちの祖父が言っていた記録も残っています。
祖母が、お寺には重傷の人を入れて、遺体は庭に並べたんです。そうしたら、『なんで遺体を庭に置くのか』って、祖父に叱られたって言ってました。でもそのくらい、安置できる場所がなかったんです」。

◇戦後の記憶を風化させないために
「今も、助かった人やその家族と付き合いが続いている家が、いくつもあります。廣泉寺ではもう七十九年、毎年欠かさず法要をしています。祖父の代から始まり、父、そして今は私の代へと引き継いできました。そうした積み重ねが、ご遺族の心のよりどころになっているんだと思います。
でもコロナ禍に入ってからは、参列される人も本当に減って、一軒か二軒、ほとんどゼロに近い年もありました。1月って特に寒いし、この辺りでも雪が降った年が二年続いたんですよ。でもこの地域は雪に弱くて、冬用タイヤを持っていなかったり、チェーンの付け方を知らない人も多くて。だから、前日の24日に近くに泊まっていても、『雪で行けませんでした』って、連絡が来ることもありました。今年も、来られたのは二軒だけでした。
それでも、たとえ誰も来なくても、私たちはこの法要を絶やさずにやり続けます。ここでやめてしまったら、きっと記憶からも、心からも、少しずつ忘れられていってしまう。だからこそ、続けることに意味があるんです。
ご遺族の心のよりどころの一つとして、そしてこの世から馬来丸のことが忘れられないように、このよりどころを守る者の責任として、非戦の思いでこれからも務めていきます」。

・鹿児島県南さつま市坊津
かつて海外貿易と仏教文化の拠点として栄えた歴史のまちで、奈良時代には鑑真が上陸。
約52kmにも及ぶ起伏の多い海岸線は、絶好のドライブコース。広々と開ける東シナ海と鹿児島県唯一のリアス式海岸を美しく展望できます。

・廣泉寺
浄土真宗(一向宗)弾圧、廃仏毀釈(きしゃく)の歴史を経て、明治12年に「久志説教所」として廣泉寺を開設。ご本尊は鎌倉時代後期頃の作品と考えられており、先の大戦時も門信徒(もんしんと)によって大切に守られてきました。