文化 〔戦後八十年 特別企画〕この記憶を、あなたへ。(3)

◆Part.3 あの日を生き延びた兵員の手記
馬来丸からの“生存者の記憶”。

海面に顔を出すまで一滴の海水も飲まず、九死に一生を得た体験。
海に沈んでいく馬来丸の最後の姿。
そして、同じ釜の飯を食べた仲間たちの無念。
「今も涙が止まらない」と語るその手記には、戦争の悲惨さと、親への思い、仲間への鎮魂、そして生き残った者としての祈りが刻まれています。
この手記で語られる、兵士というよりも、息子であり、人間としての思いを見ていきます。

◇母の恩は深し
魚雷一発!馬来丸の中央機関部附近に命中。
そのとき私たちは船首の一番船倉(ふなぐら)から六人、甲板の炊事場に昼食を取りに行き、食缶を掲げて船倉の階段を降り、五、六歩なかに入った時でした。
大爆発とともに体は飛び上がり、上部の甲板の一部が目前に落ちてきました。私は素早く階段を駆け上り、船橋、煙突の方向を見ると、船体はガタガタと大きく左右に揺れ、煙突から出る黒いはずの煙が白い色に変わり、けたたましい音を立てて吹き上げていました。
その後すぐに、二発目が私の立っていた真下に命中。破片とともに海中に吹き飛ばされ、気がついたときは海中でもがいていました。何か物体が体の上にのしかかって息苦しく、自分の体を掻きむしり、「駄目だ!無念」と思った瞬間、母の顔が浮かんで来ました。私は一言「ここで死ぬ」と伝えたい、しかし、もう「会うこともできない。ああ残念だ。」私の頭の中に母への切ない思いが駆け巡りました。
次第に体の動きも鈍くなり、気も遠くなりかけました。その時、船首が海底に届いた弾みか、体の上にのし掛かっていた物体がなくなり、苦しい息の中で、生きようと思う気力が湧いてきました。ここが生死の分かれ道だったと思います。幸いにして口や鼻からは一滴の海水も飲まず、海面に頭を出すことができ、九死に一生を得たのです。その時は、痛さも冷たさも感じませんでした。ただ生きたい、生きたいと思う気持でいっぱいでした。
一緒に食事を取りに行った同僚とは、もう二度と会うこともなく、今でも残念でなりません。
ふと見渡しますと、七、八十メートル先の海面に、船体の半分程が鯱矛(しゃちほこ)立ちとなって大きく傾き、スクリューが緩やかに回転し、哀れな姿となって沈み行く馬来丸の最期を見ることができました。私にとって一番悲惨な、そして悲しい一時でもありました。
また、親離れしたばかりの若い同僚たちが、目前に死を意識したとき、きっと私と同じように「母の顔」を思い浮かべたことに違いないと想像致します。
こうして馬来丸戦没者の思い出を書くことは、涙もろい私にはとてもつらく、涙が出てしかたありません。
ご遺族、特に親の身になって思うとき、どんなにつらく悲しまれたことでしょうか。
私のこの体験から考えますと、親と子は、いかなるときも「母」としっかり結ばれた絆があることを確信致しています。
あれから五十年。私も古希の齢に達しました。馬来丸で散華(さんげ)された戦友たちにすまないと思いつつ、毎日を感謝で暮らしています。
いつも有り難いと思うのが、現地の廣泉寺様始め各お寺様。毎年欠かすことなく、五十回忌追悼御法要まで継続勤修(ごんじゅ)していただき、ただただ感謝で頭が下がります。
馬来丸の亡き戦友よ!悲運であったがこれだけでも幸せと思ってください。
最後になりましたが、手厚い看護、温かいもてなしを頂いた坊津町民の方々に、深く感謝を申し上げ、厚くお礼申し上げます。
なお、久志の小高い丘に建設された「馬来丸戦没者慰霊碑」は戦没者とご遺族のよりどころとして、語らいの場所として永遠に消えるものではないと思います。(馬来丸戦没者第五十回忌慰霊祭特集より)

◆Epilog 歩んだ人生の先に思うこと
心に刻まれた“戦争の記憶”。

終戦から80年。戦争を経験した人は減り続けています。
野見山さんにとって戦争とはなんだったのか、そして今何を感じているのか。
改めて、野見山さんの思いに触れます。

「父は出征前に、『海が嫌いだから、海軍には行きたくない』と言っていたんですけど。最期は海やったんです」。
父・大作さんが眠る海を見た野見山さん。その目には、深い哀しみとともに、静かな覚悟が宿っていました。
「戦時中は、戦争を憎んでいる暇なんて、本当に一秒たりともありませんでした。戦争がどうとか、誰が悪いとか、そんなことを考える余裕もない。ただ、生きていくこと、それだけで精一杯でした。恨んでも、お腹はふくれませんし、生活も立ち行かない。だからこそ、何でも自分でやってみよう、どんなことにも挑戦してやろう、誰にも負けたくない。その気持ちだけで前を向いて生きてきました」。
そう言いながらも、言葉には深い祈りが込められています。
「ただ一つ、今でも変わらず心に強くあるのは、『戦争だけは絶対に起こしてはいけない』という思いです。私だけじゃなく、私と同じようなつらい経験をした人は、この国には本当にたくさんいます。五万、十万、もっといるかもしれない。そんな人たちを、これ以上この世に増やしてはいけない。そう強く願っています」。
戦後八十年という長い歳月が流れ、ようやく父を見つけることができた今、その思いは一層深まったそうです。
「父を見つけることができた、それはきっと、父に対する私なりの恩返しができたということなんだと思います。父も、きっと私に見つけてほしかったんでしょうね。そう感じています」。
そして今、野見山さんが生きがいとしているのは、人のために尽くすこと。
「今の私にとって、何よりも幸せなのは、人のお世話をすることなんです。誰かのために何かをするというのは、自分がしてあげているのではなくて、むしろ『させてもらっている』という感覚に近いんです。見返りなんていらない。ただ、その人の笑顔や感謝の言葉だけで、十分です」。