文化 戦後80年特集 80年前に思いを馳(は)せ次の世代へつなぐ―(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県朝倉市
- 広報紙名 : 広報あさくら 第414号(令和7年8月号)
■戦争の悲惨さと平和の大切さを次世代へ
昭和20年3月27日、74機に及ぶアメリカ軍のB29爆撃機により、旧陸軍大刀洗飛行場は爆撃され、壊滅的な被害を受けました。
多くの犠牲者を出した爆撃は頓田の森でも幼い命を奪いました。その日、立石国民学校(現在の立石小学校)は修了式の最中でした。式の途中で空襲警報が鳴り、地区別に分かれて集団下校になりました。程なくして大刀洗飛行場への爆撃が始まり、一木の児童は頓田の森に逃げ込むことに。そこに爆弾が投下され、31人の児童が亡くなりました。
皆さんはこの「悲劇」を知っていましたか?今号では「頓田の森の悲劇」について、一木爆死学童遺族会会長の窪山強一さんに当時の状況や平和への思いを語っていただきました。立石小学校の平和学習の様子もあわせて紹介します。
本紙次のページでは「戦時下と今」を比較する写真のほか、戦争や平和に関するさまざまな取り組みを紹介しています。
戦後80年となる今年。あらためて、戦争の悲惨さ、平和の大切さについて考えてみましょう。
問合せ:市総合政策課
【電話】28-7593
■3月27日のことを繰り返してはならない
一木爆死学童遺族会
会長 窪山強一(きょういち)さん
◇いつもと違ったあの日
当時、自分は立石国民学校の2年生で、農家だったこともあり、よく家の手伝いをしていた。亡くなった姉は5年生。兄弟の中でも年齢が近く、勝ち気でけんかもしたが、よく面倒をみてくれた。
昭和20年3月27日は、立石国民学校の修了式。講堂で校長先生の訓話の最中に警戒警報、その後、すぐに空襲警報に切り替わり校内が慌ただしくなった。しかし、自分は「早く家に帰れる」とうれしく思っていた。普段の訓練どおり、すぐに地区ごとに分かれて引率の先生と集団下校となった。
一木の自宅を目指し避難しているとき、上空には初めて見るキラキラとした飛行機が。「立派な飛行機ができたもんだ」と恐怖心はなかった。しかし、その後、大刀洗方面から大きな爆撃音と地響き、黒煙が上がるのが見え、「大ごとになった」と思った。そのときは大添橋あたりで、周りには陸軍病院や飛行学校甘木生徒隊兵舎など軍の重要施設があり、爆撃の可能性が高く危険な場所。飛行学校の軍人が、「ここは危ないから戻れ」と叫んでいた。先生の判断で学校の方へ引き返していたが、「木で覆われた森なら安全だ」と逃げ込んだ。手で目と耳を隠し、伏せた状態で、みんなでシイの木を取り囲むようにして身を隠した。姉も遅れて森に逃げ込んだが、それが生きている姉を見た最後だった。その後、爆撃で気を失った。
◇異世界のような悲惨な光景
しばらくして目を開けると砂ぼこりで何も見えない。「俺は死んだのか…」と思い再び気を失う。どのくらいの時間がたったのかわからないが、再び目が覚めると森はなくなり空が見えた。周囲には木の枝や葉が散らばり、その下に子どもたちの遺体。24人は即死だった。自分はかかとに爆弾の破片が突き刺さり、ここから這はい出ようと必死だった。何人かは泣き叫び、助けを求めていた。
先生や親が森に駆け付け、即死の子どもは学校に、自分を含めた重軽傷者は陸軍病院まで運ばれた。先に爆撃を受けた大刀洗飛行場の兵士も大勢いたため、治療は軍人が優先だったが、何とか応急処置をしてもらえた。ただ、そのような状況のため、重傷者8人のうち7人が亡くなった。自分はかかとにガーゼを詰め込まれただけで、とにかく痛く、やがて傷口は化膿し、天井がぐるぐる回るほどの高熱で生死の境をさまよった。ガーゼを交換するときに破片も取れ、それから快復に向かった。
当時、父は区会長をしていて、「子どもが帰ってきていない家は学校へ」と走り回っていて、姉を迎えにいったのは父が最後であった。姉が家に帰ってきたとき、頭が割れ、片方の足がちぎれかけ、冷たくなっていた。母はその姿を見て「医者に連れて行ったらどげんかなる」と涙を流しながら話した。
自分は小さかったこともあり、姉の死について当初はあまり考えなかった。触れないようにしていた。その後、終戦を迎え、時代は高度経済成長期。自分が大人になるにつれ、突然命を奪われた姉を思い、「姉が生きていたら、特技を生かして今ごろは―」と家族で話すこともあった。
◇「悲劇」を二度と繰り返さないために
皆さんに伝えたいことは「戦争は絶対にいかん。戦争は無差別の人殺し」ということ。世界では今も戦争が起こっているが、対岸の火事だと思っている人もいるかもしれない。しかし、平和な日本にもいつ同じことが起こらないとも限らない。「戦争を起こさないために自分たちにできることは何か」考えなければならないと感じている。
遺族会では毎年3月27日に一ツ木神社で慰霊祭を行ってきた。80年を迎え、当時を知る人は3~4人に。今後も慰霊祭は続けていくが、このままでは「頓田の森の悲劇」が廃すたれていくのではないかという危機感を持っている。皆さんには3月27日のことを、時々でもいいから思い出してほしい。「頓田の森の悲劇」を風化させないためにも、そして戦争のない平和な日本を続けていくためにも。
自分は今後も後世に語り継いでいきたい。あの日のことを―。
■立石小学校平和学習フィールドワーク
6月19日、立石小学校の6年生が平和学習の一環でフィールドワークに参加しました。フィールドワークでは立石国民学校跡(現在の立石コミュニティセンター前広場)や飛行学校甘木生徒隊跡(現在の一木児童公園周辺)、大刀洗平和記念館などをめぐりました。
一ツ木地蔵尊では窪山強一さんから当時の話を聞きました。真夏ほどの暑さの中、児童たちは熱心に聞き入り、その後、亡くなった児童を追悼。窪山さんとともに、当時のことへ思いを馳せました。
■児童インタビュー
◇立石小学校6年生
澁田優翔(ゆうと)さん
戦争を二度と繰り返さない世界に
児童たちはいろんな夢を持っていた中で亡くなり、本当に悔しくて悲しかったと思います。戦争でたくさんの人が亡くなったことを知り、被害の大きさを感じました。
戦争をするのではなく、話し合いで解決できる世界になってほしいと思います。将来は医者や警察官など人のためになることをしたいです。
◇立石小学校6年生
久保山彩葉(いろは)さん
笑い声響く平和な朝倉市に亡くなった児童は怖かっただろうし、生き残った児童も苦しかったと思いました。また、当たり前にご飯が食べられることも平和な世の中だからだと思いました。
将来の夢は図書室の先生です。頓田の森の悲劇のことを次の世代の子どもたちに伝えていき、笑い声が響く平和な朝倉市にしていきたいです。