- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県芦屋町
- 広報紙名 : 広報あしや 令和7年7月号
■山鹿貝塚
新人学芸員が、芦屋町の歴史を基本から探る連載第6回をお届けします。今回は山鹿貝塚を紹介します。
◇山鹿貝塚の発見
山鹿貝塚は、東西約100m、南北約70m、標高12mの砂丘上に位置する縄文時代の貝塚です。昭和28(1953)年に竹中岩夫氏によって発見されました。昭和30(1955)年に、1号人骨を発見。昭和38(1963)年には、高校生が貝輪(かいわ)のはまった人骨前腕部を発見しました。この人骨は直ちに埋め戻され、昭和40(1965)年に再発掘(第2次調査)が行われ、2・3・4号人骨が発掘されました。その成果は、翌年日本人類学会で発表され、注目を浴びました。昭和43(1968)年に第3次調査と第4次調査(補足調査)、平成13(2001)年に第5次調査が行われました。
これらの調査や出土した土器の分析などから、山鹿貝塚は縄文時代早期初頭から晩期にかけての、約6000年間に及ぶ遺跡であることがわかりました。
◇山鹿貝塚の縄文人骨
貝塚からは、貝がらや動物の骨、壊れた土器や石器、骨角器、人骨などが見つかります。貝塚というと、「ごみ捨て場」というイメージがありますが、亡くなった人や使い終わった道具を大切にあの世へ送ると同時に、再生を祈る場所でもありました。山鹿貝塚で、これまでに出土した人骨は20体以上。葬られた時期はいずれも約3500年前と推定されます。性別が分かる出土人骨18体は、男性8人、女性7人、乳幼児3人の構成でした。
◇日本一おしゃれな縄文人
発見された人骨のうち装飾品を身に着けていたのは、男性が2人、女性が7人でした。装飾品を身に着けている割合は、他遺跡の縄文人と比べて極めて高いものでした。
特に注目すべきは、日本一おしゃれな縄文人とも言われる2号人骨の女性です。2号人骨は、サメの歯のイヤリング2個、緑色大珠(りょくしょくたいしゅ)1個、貝輪19個を着け、鹿の角2本を添えられた状態で葬られていました。この女性は、装飾品の多さや種類から、占い師兼女族長であったとされています。
2・3・4号人骨や出土資料は芦屋歴史の里で保存・展示しています(人骨はレプリカを展示)。また、歴史の里では毎年、2号人骨の緑色大珠にちなんだ勾玉づくり講座を行っていますので、参加してみてください。
(芦屋歴史の里)