- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県吉富町
- 広報紙名 : 広報よしとみ 令和7年10月号
本年は終戦八十年の節目を迎え、戦争の悲惨さや平和の尊さを人々の心に訴えかけるのは、容易でありません。僕が母のおなかにいることがわかり、名前だけはつけて、父は出征、ビルマ(現在のミャンマー)モロコンで戦死しました。二十六歳でした。一度もお父さんと呼んだことは勿論ありませんし、父も私が生まれたことも知りません。私は戸畑で生まれて若松に住んでおりましたが母は父が生存して帰るのを信じて、一日も早く帰還するのをひたすら待ち望んでおりました。何の情報も入らず路頭に迷っている最中に突然、昭和十九年四月二十日没、時刻不明、戦死公報と遺骨が届きました。遺骨の中身(骨壺)には小さい石ころがひとつ入っているだけで遺品も何ひとつ届かず、情けなく哀れなものでありました。その後、母は戦死したことを信じることができず、父が帰るのをただ一筋に信じながら消息について東奔西走をしながら尋ね歩いてみたが望みはありませんでした。途方に暮れる暇もなく、私を育てるためにどうすれば良いかを考え、若松で暮らすよりは自分が長年住み慣れた土地に戻ることが最良ではないかと思い、生まれ育った故郷(吉富町)に帰ることに決め、私が三歳の時に帰郷しました。
その後、私を育てるため働く場所を探している時に国の土手の修復事業として建設省(現国土交通省)山国川及び黒川の堤防の護岸工事が始まる機会にお茶沸かし等の仕事の話があり、そこで働くことに決めました。現実は厳しくお茶沸かしだけではなく、男勝りの仕事に従事、家事はもちろん、夜は縫物、編物等で寝る暇もない程、一生懸命育ててくれました。
やがて堤防の護岸工事も終了し、役場で、国民年金制度ができて、集金する方を探していることを聞き、就職させていただきました。そこで、皆様に国民年金へ加入して頂くために町中を回って加入者を募りながら集金活動等で大変苦労し、私を育ててくれました。私には、いつも人様に対して迷惑は絶対にかけるな、悪いことはするな、後ろ指をさされることはするなと、口癖のごとく言われ、母には事あるごとに反発もしたが、自分で言うのもおかしい話ですが、ぐれる事もなく、私が仕事に就くまでは苦労のかけどおしでした。
着の身着のままの生活が続く大変な時期に少しの特別給付金について白い目で見られ誹謗中傷を受け母の心は、ずたずたに傷つき、親父をかえしてくれればそんな給付金はいっさい必要なしと突っぱね、子供(私)に対しては一銭の給付金はありません。母は男勝りの気丈な性格で弱音を吐いたことは一度も見たことはありません。常に仕事に没頭し、よく頑張りぬいたと思います。今思うことは、母には感謝、感謝のみです。
父の三倍超えて生きて、令和二年に百二歳で旅立ち楽しい時間はあまりなかったと思いますが、苦労して長生きができ、これだけは自慢できます。
戦争の苦しみは二度とあじわいたくありません。戦後八十年といいますが我々遺族にとっては戦後とはまだまだほど遠く、何故ならばまだ多くの人が戦死した方々の遺骨はもちろん、遺品も一つもないのが実情です。私たちが今日、平和と自由の恩恵を享受できるのは、戦禍の中で尊い命を捧げられた戦没者の犠牲があったからであることを決して忘れることはできません。これからも平和で豊かな生活を守るためには、次世代に語り継いでいくことが私たちの責務でもあり、なかなか継続するに当たっても難しい問題でもあります。
一方では、ロシアによるウクライナ侵攻や中東地域における民間人を巻き込む悲惨な戦闘状況など、我々の平和や安全な暮らしを揺るがす事態が世界各地で生じています。戦争をして良いことはひとつもありません。今こそ、我が日本がリーダーシップを取って全世界に向け早々に戦争の終結を強く訴えることが責務であり、一日も早く終息する事を願いたいと思います。遺族会におきましては老齢化が進んで役員も全員八十歳を超え、会員も少なくなり、今後どうして存続して行くかが間われる大変な時期になっております。
先の大戦で亡くなられた吉富町出身の戦没者並びに一般戦災死没者の全ての御霊に対し、哀悼の誠を棒げ恒久平和への誓いを新たにし、戦争体験者がどんどん減少する中でこの悲劇を後世に永く伝えることは我々遺族の責務でもあり、跡を継いでいただくためには、若い世代の「語り部」を心よりお待ちしております。ぜひともよろしくお願い申し上げます。
遺族会会長 喜田勝己(きだかつみ)さん
