くらし 被爆後の長崎のまちと人々の歩み(1)

昭和20年8月9日、1発の原子爆弾によって焼け野原と化した長崎のまち。壊滅的な被害を受け、この先70年は草木も生えないといわれていました。しかし、被爆から今年で80年を迎えた現在の長崎のまちには、草木が生い茂り、家族や友人たちとの日常を過ごす人々の姿があります。そして、「長崎を最後の被爆地」とするために、被爆者をはじめとして、こどもから大人まで幅広い世代が世界に平和への思いを発信し続けています。
これまでの80年間には多くの人々の、さまざまな葛藤がありました。先頭に立って被爆の実相を伝えてきた被爆者の人数は全国で10万人を下回り、平均年齢は86歳を超えました。直接話を聞くことも難しくなりつつあり、次の世代への継承が求められています。
今回の特集では、被爆者の築城さんの体験を交えながら、被爆から現在に至るまでの長崎のまちと人々の歩みを振り返ります。そして、次なる被爆90周年、被爆100周年を迎えるために、これからの長崎がどんなまちであってほしいかを考えます。

■お話を聞きました
●被爆者 築城(ついき) 昭平さん(98歳)
昭和2年生まれ。被爆当時18歳で、長崎師範学校(現在の長崎大学)に通う学徒でした。軍需工場へ学徒動員されていたため、夜勤に備えて、爆心地から1.8km地点にある学校の寮で仮眠していたときに被爆。全身に火傷を負い、特に左腕と左足が重傷でした。現在は語り部として、当時のことを伝えています。

●交流証言者 大塚 久子さん
築城さんの被爆体験を受け継ぐ交流証言者として活動中。交流証言者とは、交流を深めた被爆者の体験や戦前・戦後の人生を聞き取り、審査を経て認定された証言者です。聞き取った体験を、被爆者の代わりに伝えています。また、「永遠(とわ)の会」代表として、被爆体験記を朗読するボランティアにも取り組んでいます。

■被爆直後の長崎
爆心地から半径2キロメートル以内の区域にあった建物はほぼ全壊。市内の救護所には、多くの負傷者が殺到し、混乱を極めました。市民は壊滅した長崎のまちを見て、絶望の淵に立っていました。そのような混乱の中、昭和20年8月15日に終戦を迎え、人々は明日をどのように生きていくのかという問題に直面しました。
被爆時、仮眠していた築城さんは、布団から出ていた左腕と左足に特に大きな火傷を負いました。数カ月間、寝たきりの状態が続きましたが、翌年1月頃には少し歩けるように。早く学校を卒業したいという思いがあったため、少し無理をしながらも通学を再開。校舎は、被爆により倒壊していたため、移転した学校がある大村まで通いました。

■被爆後の人々の暮らし
あらゆるものが不足していたため、生活に必要な物資の配給には多くの人が集まりました。しかし、配給物資だけでは生きていくことができず、家の周りの畑で野菜を作る人もいました。時には、食べるものを何とか調達しようと、闇市で食糧などの物資を買い求める人の姿もありました。
師範学校を卒業し、教員となった築城さんは、今でも忘れられない経験をしました。それは、昭和22年、片淵中に赴任し、運動会を開催したときのことです。昼休みに職員室へ戻ると、泥棒が入った形跡がありました。その泥棒は、置いていたお金には全く手を付けず、弁当だけを盗んでいました。食糧不足の時代を感じさせる、印象的な事件だったそうです。

■平和祈念式典の開催
終戦の1カ月後には、市内各地で原爆死没者の慰霊祭が行われました。そして、被爆から3年後の昭和23年8月9日に、長崎市の主催で初めて「文化祭」と称した、原爆死没者の慰霊祭を爆心地の松山町で執り行いました。以来、現在に至るまで平和祈念式典の開催を続けています。
被爆してから、今日まであっという間の80年間だったと語る築城さん。平成25年の平和祈念式典では、核兵器がこの世から無くなっってほしいという強い気持ちで「平和への誓い」を世界へ発信しました。