くらし 被爆後の長崎のまちと人々の歩み(2)

■明かされた被爆の実相
戦後の長崎は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に占領されていました。そのため、原爆被害の報道は、GHQが発令したプレスコードと呼ばれる規則により厳しく制限されていました。
築城さんは爆心地から1.8キロメートル地点にある家野郷(現在の西浦上中学校付近)で被爆しました。けがをした築城さんは、長与にある救護所へ向かったため、爆心地の様子は見ておらず、また、家野郷の被害も大きかったことから、当初はここが爆心地だと認識していました。そのため、昭和25年頃に長崎市から発表された、原爆による死亡者数を知った築城さんは「死亡者数の桁を間違って一つ多く発表したのでは」と疑っていました。その後、GHQによる占領が終わった昭和27年、朝日新聞社の雑誌「アサヒグラフ」で、被爆した長崎の写真が初めて世間に公開されました。その写真を見た築城さんは、初めて原爆の被害の大きさを実感したそうです。

■まちの復興に向けて
昭和24年、国際文化都市として復興を進めていくために公布された「長崎国際文化都市建設法」。この法律は長崎市のみに適用された特別法で、平和と文化を象徴する都市を目指して、戦災地域の復興や平和記念施設の建設が進められました。昭和30年には長崎国際文化会館と平和祈念像の2つが完成。長崎国際文化会館には、原爆資料の展示室が備えられました。また、平和祈念像は市内外からの寄附により建立され、原爆の惨禍から立ち上がろうとする市民の象徴となりました。こうして、長崎のまちは復興への道を歩んでいきました。
昭和30年頃、築城さんは山里中へ赴任していました。平和祈念像を建てることを知り、仕事帰りに造る様子を何度も見に行ったり、寄附に協力したりしました。今では、長崎から世界に平和を発信するシンボルとなっていて、寄附という形で建立に関われて良かったと感じているそうです。

■復興後も続く苦しみ
被爆から10年後には、長崎のまちに住宅などが立ち並び、まちは少しずつ活気を取り戻していました。その一方で、被爆者の多くは原爆による病気やけが、生活苦、差別・偏見に苦しめられていました。
築城さんの周りも白血病などで亡くなる人が多く、自分自身もいつ死んでもおかしくないと感じていました。目には見えない被爆による放射線の被害が、体にどのような悪影響を及ぼすのか分からず、毎日不安でいっぱいだったそうです。

■平和な世界を目指して
昨年は、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞するなど、これまで被爆者が自らの壮絶な体験を語り、世界に核兵器廃絶を訴え続けてきた功績が認められました。また、その思いは若い世代にも届き、市内外で平和を訴える若者の活動も目立ちます。
築城さんも市内で最高齢の語り部として、現在も被爆体験講話を続けています。海外のかたにも、自分の声で平和への思いを届けようと、90歳のときに英語の勉強を始めました。その1年後には、初めて英語で講話をするなど、国内外の人々へ被爆の実相を広く伝えています。今後も、生涯現役で、世界中の人に平和を訴え続けていきたいと力強く語っていました。

■これからの長崎はどんなまちであってほしい?
▽被爆者の築城さん
一人ひとりの思いと行動が積み重なれば、世界は変えられるかもしれません。長崎が世界へ平和を発信する中心地となって、力を合わせて平和の大切さを伝えていきましょう。

▽交流証言者の大塚さん
「平和を愛する人になってください」という言葉で、いつも被爆体験講話を締めています。この言葉は、築城さんの被爆体験記につづられているメッセージで、そこに込められた思いを未来へつなげていきたいです。

▽市内在住の本郷さん親子
家族や友人とともに、我が子の成長をそばで見守ることができる日々は、決して当たり前にあるものではないと感じます。だからこそ、いつまでも、こどもたちの明るい声が響く長崎のまちであってほしいです。

▽山里小5年生の中山さん・八重山さん
放課後に野球と水泳を頑張っています。スポーツを楽しむことができるのも、平和があってこそだと思いました。10年後、20歳になったときにも、学校で学んだことをいろんな人に伝えていきたいです。

あの日から80年。
長崎のまちは、多くの痛みや葛藤を乗り越えながら、平和を願う都市として歩んできました。
被爆者の高齢化は着実に進み、私たちは被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代といわれています。
今、その思いを次の世代に受け継ぐことがより一層求められています。
これからも「長崎を最後の被爆地」とするためには、私たち一人ひとりが過去の記憶と向き合い、行動していくことが大切です。
平和のバトンを、未来へつないでいきましょう。

問合せ:
平和推進課【電話】844・9923
被爆継承課【電話】844・3913