- 発行日 :
- 自治体名 : 長崎県対馬市
- 広報紙名 : 広報つしま 令和7年7月号
■対馬の石塔(1)~「一所懸命」を貫いた対馬の武士~
今月号から3か月にわたって、対馬の石塔(せきとう)についてご紹介します。
石塔とは、もともと仏舎利(ぶっしゃり)(お釈迦様の遺骨)を安置するため、石を加工して作った供養塔(くようとう)です。時代が下るにつれ、故人を葬るための墓標や、祖先を顕彰(けんしょう)し自家(じか)のアイデンティティを示すシンボルとしての性格を帯びるようになります。
対馬の石塔は、島内46か所に約100基(き)が存在すると言われています。主に南北朝~室町時代(14~16世紀)に建塔された石塔が多数を占め、対馬の西海岸に集中していることが特徴です。
その中で、元寇の際、元・高麗の軍と奮戦の末戦死した島主・宗資国(そうすけくに)をはじめとする対馬の武士たちの墓とされる石塔が島内に存在します。資国の墓と伝わる石塔は「御首塚(おくびづか)」(厳原町下原(しもはら))と「御胴塚(おどうづか)」(同町樫根)とが離れて存在し、壮絶な戦いを物語っています。また「越前五郎(えちぜんごろう)の墓」(美津島町加志(かし))や「宗甲斐六郎(そうかいろくろう)の墓」(峰町吉田)と伝わる石塔も、島内の郡司が各地で元軍と戦った話とともに現在まで残されています。
これらの石塔は、石質・形態から、鎌倉時代当時に建塔されたものではなく、後世の南北朝・室町時代の建塔と考えられています。もしかしたら元寇以降の時代の人々が、鎌倉武士たちの事績を偲んで建塔したものではないでしょうか。
現代まで残るこのような石塔からは、領民を守るために「一所懸命」を貫き散った対馬の武士たちの足跡と、彼らへの島民の感謝と誇りが窺えます。
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