くらし 特集 終戦80年~語り継ぐ、あの日のこと~(2)

■深い悲しみを生き抜いてきた私たちだからこそ 今ある平和の尊さを語り継いでいきたい
荒尾市遺族連合会 増永 征治(ますながまさじ)さん

◇戦没者の慰霊を続ける遺族たちによる会
太平洋戦争で家族を失った遺族による有志の会「荒尾市遺族連合会」。その会長を務めるのが、増永征治さんです。昭和18年に福岡県北九州市で生まれ、戦時中は母の実家がある菊池市に疎開。父は戦死し、戦争遺児となりました。その後、荒尾市に移り住み、定年後に連合会の活動に参加。現在、同会には155人の会員が所属し、毎年8月15日の終戦の日に行われる全国戦没者追悼式や、毎年10月に市独自で行う、戦没者追悼式にも参列しています。四山の山頂にある慰霊塔では、会のメンバーが毎月清掃活動を続けています。
「私たちが今日の平和と豊かな暮らしを送れるのは、国のために命を捧げた戦没者の尊い犠牲があったからです。そのことを忘れてはいけませんし、私たち遺族は1日たりとも忘れたことはありません。戦争は終わりましたが、遺児や遺族は深い悲しみの中で励まし合い、遺族としての誇りを持ちながら、多くの困難を乗り越えてきました。これからも、国のために命を捧げた先人の想いと、平和の大切さを後世に伝えていきたいと思います」と増永さんは語ります。

◇次の世代に引き継ぐ
全国の遺族連合会の会員の平均年齢は84歳と高く、今後の存続が課題です。「現在は、自分の子どもの世代に呼びかけて『青年部(孫・ひ孫の会)』の設立を目指しています。戦争を語り継ぐ世代が減る中で、戦争の記憶が風化していく流れは止めなければいけません。現在の世界情勢をみても、今こそ平和教育が必要ですし、今後は青年部がその役割を担っていってくれることを願っています」。
増永さん自身も、1歳半の時に父を東南アジアの戦地で亡くしました。疎開先では親族の家で育てられました。母親は家計を支えるため出稼ぎに出ていたので、会えるのは月に1度という寂しい少年時代を過ごしました。通っていた小学校では、クラスの中で5・6人が戦争遺児だったそうです。
そんな悲惨な戦争が終わり、今年で終戦80年。この夏、東京の日本武道館で行われる全国戦没者追悼式には、増永さんも参列する予定です。

■出征する父を、長洲駅で見送ったことを思い出す 戦死を知ったのは、終戦から3年後だった
父を戦争で亡くした 片山律子(かたやまりつこ)さん

◇父に赤紙が届いたことで進学を諦め、学徒動員へ
戦後80年を迎え、年々、戦争経験者が少なくなるなか、片山律子さんは当時のことを鮮明に語ってくれました。
「小学6年生の時、職員室に呼び出されて、『君のお父さんは戦争に行くことになったから、君は女学校には行かなくていい』と言われました。それで私は進学を諦め、兵隊さんのために炊事や、松の木の樹液を溜めて戦闘機の燃料にする手伝いなどをしていました。また、敵兵が攻めてきた時のために、女子は長刀を習っていました。私は長刀が得意でしたよ」。そう軽やかな口調で語る片山さんですが、昭和18年に36歳で出征した父は、二度と家族のもとには戻ってきませんでした。
「出征の日は家族で長洲駅まで見送りに行きました。その後しばらくは、満州の父から手紙が届いていましたが、ある時からこちらが送った荷物が送り返されるようになりました。『お父さんはどこにいるんだろうね』と家族で話していましたが、後に父はフィリピンで戦死していたことがわかりました。その連絡が来たのは、終戦から3年後でした」。
片山さんの弟である宮脇一敬さんは「当時は幼く、父親の記憶はほとんどありませんが、3回フィリピンへ行き、見晴らしのいい山の上にある慰霊塔に手を合わせてきました」と言います。

◇異国で散った父を想う
赤紙が来たとき、父は「お国のために」と喜んで戦地に向かったそうです。「今思えば、30代の若さで家族と離れ、異国で命を落とすなんて、本当に気の毒なことです。私たちは『お父さんは、どこで、どんな風に亡くなったんだろうね』とずっと話してきました」と片山さん。
父が使っていた弁当箱さえも、武器製造のために差し出さなければならなかったことを思うと、家族の辛い心情が伝わってきます。片山さんたちが暮らしていたこの荒尾市も空襲を受け、近所の家が爆撃に遭うなど、恐怖に怯える日々を過ごしたそうです。戦時中も戦後も、家族は励まし合って生きてきました。そして今でも兄弟姉妹4人で集まって当時の話をするそうです。
「戦後80年はあっという間でした。ここまで生きられたこと、家族や周囲のみなさんに感謝しています」と語ってくださいました。