くらし 「大王(だいおう)のひつぎ実験航海」から 20 年“古代と海への挑戦”を振り返る(2)

■対談 実験航海から二〇年当時を振り返って
実験航海発案者・髙木恭二さんと航海隊長を担った下川伸也さんに、市文化課・藤本貴仁課長(学芸員、実行委員として陸上支援を担当)がお話をうかがいました。

髙木恭二(たかききょうじ)さん
1951年生まれ。宇土市出身。長年、市職員として文化財保護行政を担当。市教育部長、市民会館館長を歴任。現在、市文化財保護審議会委員長。

下川伸也(しもかわしんや)さん
1960年生まれ。熊本市出身。専門分野は水産学(漁船運用学等)。現在、水産大学校(山口県下関市)校長。

◇石棺研究が導いた実験航海
藤本 発案の経緯をお尋ねします。
髙木 長年の石棺研究がきっかけです。研究を進めるうち、近畿等の九州外の一部の石棺が宇土の馬門石(まかどいし)(阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん))に似ていることに気づいたので、熊本大学の渡辺一德先生(地質学)との共同研究で論文を発表。考古学界の知るところとなりました。
藤本 論文を発表された一九九〇年頃、近畿に分布するピンク色の石棺の石材産地は、大阪府と奈良県の境にある二上山(にじょうさん)というのが定説でした。馬門石説は支持されなかったのでは。
髙木 発表当初、学界では否定的でしたが、二〇〇〇年頃には定説になりました。研究に没頭するうちに、復元した石棺を実際に運んでみたいと考えるようになりましたが、誰に話しても「面白い話だね」と言うだけでした。

◇実験航海の実現に向けて
髙木 ところが、友人の北九州の研究者はとても積極的で、実現に向けてどんどん話が進んでいきました。宇土の地域づくり団体・熊本県青年塾や読売新聞西部本社の協力も得ました。
下川 実験航海の話を私が聞いたのはその頃でした。大王のひつぎ実験航海の三〇年前に「野生号プロジェクト」(釜山ー博多間の人力航海)というのがあって、漕ぎ手として水産大学校が参加した経緯がありました。
藤本 下川先生が水産大学校の学生だった頃、野生号に関わった方たちが、まだ水産大におられたんですよね。
下川 そうです。その方たちの経験を聞けたので、大阪までの実験航海の計画を立てやすかったと思います。
藤本 修羅(しゅら)(石棺等の重量物運搬用木製ソリ)の原木を伐採して製作が始まったのは二〇〇四年の春。同じ頃、復元石棺の製作も動き出しましたね。
髙木 三ツ塚(みつづか)古墳(大阪府藤井寺市)出土修羅を参考に、同じものを造ろうと考えました。青年塾のメンバーが宇土半島で必死になって原木を探し、宇城市不知火町で良木を見つけました。
藤本 石棺復元用の馬門石の巨石は、身が二〇t、蓋が一五tの重さ。なかなか見つかりませんでしたね。
髙木 二〇〇四年の夏、石棺と修羅が完成し、機運が高まりました。
下川 志賀島(しかのしま)(福岡市)での海王の造船では、座る所や櫂(かい)の間隔をいつも漕いでいるカッターボートの寸法に近づけてほしいと依頼しました。
髙木 海王は宮崎県の西都原(さいとばる)一七〇号墳出土舟形埴輪をモデルにしましたね。運搬方法は、石棺を載せた台船を海王で曳航(えいこう)する案を採用しました。

◇「大王のひつぎ」海を渡る
藤本 宇土マリーナでの出航式終了後、職場に戻ってインターネットを見たら、検索サイトのトップページに実験航海の記事があって驚きました。
髙木 それだけ全国的に注目を集めた事業でした。
下川 途中の玄界灘で海が荒れて、台船に海水が入った時は大変でした。
髙木 宗像市(福岡県)の沖ですね。本当に沈みかけたんですよね。最大の難関だったんじゃないですか。
藤本 やはり瀬戸内海とは、海の状況が違いますか。
下川 波が全然違います。瀬戸内海は両側が陸地で外海の波が入ってきませんので。関門海峡を抜けるまでは外海ですから、全体的に荒かったです。
髙木 まさに実験考古学。やってみて初めてわかることがたくさんある。
下川 古墳時代には灯台が無いので、その役割を海辺の古墳が果たした可能性があります。海際に少し目立つような物があれば目標にできるので。
髙木 古墳があるということは、集団や豪族がいることを示しています。確かに航海の上で大事なことですね。
藤本 地域ごとに豪族との交流が無いと石棺は運べないですね。物資の供給や停泊する場所も必要ですから。
髙木 ヤマト王権の大王(天皇の古称)のひつぎを運ぶ場合は、特にしっかりした体制で行われていた可能性が高いと考えています。
下川 まさに国家的プロジェクトですからね。

◇実験航海を支えた人々
髙木 出航前の準備では、寄港地選定が重要でした。熊本的な特徴がある古墳の分布等を基に航路の原案を固めました。古墳時代の寄港地(推定)近くにある現代の港を探して、それぞれの自治体に相談しました。また、実行委員会で陸上支援班を編成し、寄港地ごとに一人ずつ担当者を置きました。
藤本 各自治体の文化財担当者等、多くの方に協力いただきました。また、実験航海の漕ぎ手として延べ七四〇名もの学生さんが参加されました。
下川 とにかく一人でも多く参加してもらいたいから、各地の大学に呼び掛けて学生を集めてもらいました。
藤本 私は鞆(とも)の浦(広島県福山市)の担当でしたが、それぞれの寄港地で盛大な歓迎を受けましたね。
髙木 佐賀の唐津では、早くから衣装の準備をしていただき、盛大な歓迎イベントがありました。口之津(くちのつ)(長崎県南島原市)では、寄港記念の石碑まで作っていただきました。特に印象に残っているのは、中世の村上水軍の復元船といっしょに海王が入港した今治市(愛媛県)の歓迎イベントですね。
下川 寄港地では、たくさんの幼稚園児や小学生が待っていたので、なるべく入港予定時刻どおりに港に入ってあげたいと思っていました。

◇実験航海でわかったこと
下川 実験航海の結果、船速は平均二ノット(時速三・七km)前後と推定されます。風や波の力、潮流を読み取らないと目的地に着かない状況下で、一五〇〇年前に長距離を運んでいた事実。すごい航海能力だと感じました。
藤本 海のことを熟知した人たちが携わらないと難しいということですね。
下川 瀬戸内海は島が多く、複雑な海域ですからね。実験航海の結果をふまえると、当時の一日の航続距離は、二〇マイル(約三二km)ぐらいだったと思います。
髙木 航海時期は、海が比較的穏やかな五月から八月頃でしょうか。大体その時期以外は荒れてますね。
下川 冬場の海は特に荒れます。台風の時期も避けたでしょうね。
髙木 古墳時代、大阪湾に到着後も石棺は川を利用したり、陸上輸送で各地の古墳まで運ばれた。特に内陸の滋賀県野洲(やす)市の石棺(円山(まるやま)古墳・甲山(かぶとやま)古墳)を運ぶのは大変だったと思います。
下川 重い石棺を運べる能力があるとなると、石棺以外にも人や色々な物を運んでいた可能性がありますね。
髙木 漕ぎ手以外にも、石棺を送る豪族側も全権大使みたいな人が随行したと思う。特に相手が大王であれば、それなりの人が随行し、到着時にはセレモニーが行われたと考えられます。
藤本 地域の豪族としては、王権とのつながりを地域支配の後ろ盾として利用した側面もあったのでしょうね。
髙木 むしろそれが強いと思います。古墳時代は、王権から地域に技術者を派遣して色々な技術を伝えて、王権の力を地方に拡散させました。一方、地方豪族は、地域支配に王権の後ろ盾を利用した。石棺輸送のような大がかりな事業を民衆に見せることで、「うちの首長はあんな事業に参加するほどの大物なのか」という驚きを与えて地域支配を強固にしたと思います。
藤本 机上ではわからないことを、実験航海で検証できたと思います。
髙木 古代人がやったことを、今考え得るなかで限界まで検証した実験航海でした。船、石棺、修羅を復元し、実験航海を行ったことで、多くのことが証明されました。また、航海では漕ぎ手の学生や、寄港地で多くの協力がありましたが、古墳時代当時もそれに代わる人がいたということ。その協力無しに石棺輸送はできなかったということも証明できたと思います。
藤本 世界的にも、この規模以上の実験航海は行われていないですよね。
髙木 実験航海で使った船や石棺をどのように残して活用するか。今後の課題ですね。
藤本 お二人とも長時間にわたりありがとうございました。
髙木・下川 ありがとうございました。

※航海時の写真は、全て読売新聞西部本社撮影。また、対談内容の詳細は、市ホームページ「宇土市デジタルミュージアム」で公開中