文化 湯前歴史散歩 相良三十三観音めぐりと御詠歌(2)

御詠歌(ごえいか)から湯前町内の相良三十三観音札所を紹介します。

■二十四番 南朝寺観音
南朝寺(なんちょうじ)と聞いて、そんなお寺が本町にあっただろうかと思われたのではないでしょうか。南朝寺は本町に存在したお寺で、井口武親・美辰の御詠歌の巻物に二十四番札所として記されています。
相良家の歴史書によれば、明応か永正のころ(1492~1521年)、八代の悟慎寺(ごしんじ)の前住職が湯前に来て、今の里宮神社の下にあたる川端の地に寺を建て、はじめは多福寺、のちに温泉寺(運泉寺)と称しました。正保元(1644)年6月、大雨が降って、普門寺下の崖が崩れ、寺院や住僧・小僧・門前の男女・牛馬に至るまで埋没してしまいました。正保4年、寺は再建され法泉寺と改称しましたが、これもほどなく火災にあい、慶安4(1651)年、同所南の里村に移して南朝寺と称しました。その後、元禄9(1696)年温泉寺の旧地に戻し、法泉寺(宝泉寺)と称したようですが、さらに宝永8(1711)年、南朝寺の場所に移されたようです。
移転を繰り返し、名称もたびたび変わっているのでややこしいですが、宝泉寺として幕末まで存続しています。慶応2(1866)年に人吉藩内の寺院に集寺が命じられ、岩野の龍泉寺に集合されることになったようです。慶応3年の「水田名寄帳(なよせちょう)」に宝泉寺が所有する水田が記載されているので、このころはまだ寺院として機能していたようです。明治30年ごろまでは古堂が残り、南朝寺と呼ばれていたようですが、それもいつしかなくなったようで、あとを引き継いだ龍泉寺が二十四番札所とされたようです。また、現在は岩野の生善院(猫寺)も二十四番札所となっています。
さて、南朝寺の御詠歌は次のようなものです。

「皆人(みなひと)の つゆのまへぬる世の中に こころを留めて 何思ふらん 武親」
「ゆきめぐり のぼりてとおく まよふかな へがたき道は のりのひとすじ 美辰」

御詠歌には札所の寺院名や所在地名が詠みこまれています。この二首にも「ゆのまへ(湯前)」が詠み込まれていて、二十四番札所が確かに本町にあったことを物語っています。

■二十五番 普門寺観音
二十五番札所は今と同じく普門寺観音で、江戸時代には「御本地堂」と呼ばれていました。御詠歌は次のとおりです

唯(ただ)たのめ 普(あまね)き門を 出(いで)し身の まどかに通ふ 道に入るべく 武親」
「ふく風に もれてつどふや むれの鐘(かね) しばしばのりの 心すまさん 美辰」

どちらにも「普き門」「ふもむし(ふもんじ)」と寺の名前が詠み込まれています。

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)