文化 シリーズ第15号 前略、市史編さん室より

■新発見の史料紹介
これまで市史編さん室に提供いただいた史料の中から、新発見の史料を紹介します。

◇東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の書
この書は大正11年(1922)の夏に書かれたもので、署名が「平八郎」と書かれています。そして、図案化されたサインである「花押(かおう)」が記されています。文字の特徴や花押の形からは、この書が東郷平八郎によって書かれたものである可能性を示しています。
書の内容は主君に仕える忠孝(ちゅうこう)の道を説いた中国の古典『忠経(ちゅうきょう)』の一部で、「前田君」に贈られたものです。「前田君」とは、「前略市史編さん室より第9号」で紹介した前田勘助(まえだかんすけ)の孫に当たる人物です。前田君は、明治時代終わりから大正時代にかけて、東京で警視庁の巡査として働きました。
この書を東郷に書いてもらったのは、その時で、東郷は巡査として国に尽くす心構えとして、「仁・義・礼・信・賞・刑」の六つが大切であると示してくれたのです。

◇東郷平八郎とは
東郷平八郎は鹿児島県人の多くが知っている郷土の偉人です。それだけではなく、海外で最も有名な日本人の一人でもあるのです。
明治37年(1904)から38年(1905)の日露戦争で日本は大国ロシアと衝突しました。当時世界最強と言われていたロシア海軍の主力艦隊であるバルチック艦隊と日本の連合艦隊との戦いは、日本の命運を左右するものでした。この戦いを制したのが、連合艦隊司令長官の東郷平八郎でした。東郷はバルチック艦隊を日本海海戦で完全に撃破したのです。
当時の小国日本が大国ロシアを破ったニュースは、世界に衝撃を与えました。東郷は「東洋のネルソン」と、イギリスの英雄に例えられ賞賛されたり、日本人で初めてアメリカの『タイム誌』の表紙を飾るなどして、世界的に注目されたのです。

◇東郷平八郎と指宿との関係
前田君は、そんな郷土の偉人である東郷に書を書いてもらったのですが、その背景は次のようなものでした。
東郷の父東郷実友(とうごうさねとも)は、幕末の揖宿郡(いぶすきぐん)の郡奉行見習(ぐんぶぎょうみなら)いでした。安政5年(1858)、藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の命令で、東方に97カ所の井戸を掘り、井戸の完成記念に「島津斉彬公堀井碑」を建立しています。碑文は後の昭和12年(1937)には見えなくなり、息子の東郷平八郎が書いた碑文と添え書きを元に、新たな記念碑が建てられました。
東郷と指宿との繋がりは、この井戸だけではありませんでした。幕末の指宿郷役所に勤めた前田君の祖父勘助の日記には、東郷の父実友宅を訪問したなどの記載があり、二人が親しい関係だったことがわかります。そして、前田勘助の子孫の方には、前田君の父(勘助の息子)と東郷平八郎が幼なじみだったこと、それで書を書いてくれたことが伝わっています。
このことから、東郷は指宿と極めて近い関係であったことが明らかになりました。同時に、この書が書かれた経緯も明らかとなり、東郷平八郎によって書かれたことが確実となったのです。

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