くらし 特集 戦後80年という節目に(2)

■其の1ー当時の証言(1)
林 順子(じゅんこ)さん(93)本市在住
昭和6年(1931)11月30日名古屋市生まれ/父が軍人で転勤が多く、在住地で空襲があったことから、父方の祖父がいる垂水市に避難。

◆空襲の中、家の消火活動。
○勉学に励むことも難しかった
昭和20年(1945)、私は鹿児島市にある第一高等女学校に通っていて、2年生でした。当時学校では、授業よりも軍服の補修作業等の仕事が優先される状況でした。また、鹿児島市では空襲が頻発し、学校のプールにいた際に空襲警報が鳴り、急いで防空壕に避難したこともあります。安全を考慮して、夏休みになると父方の祖父がいる垂水市へ疎開し、おじいさんの農作業を手伝いました。

○垂水大空襲の恐怖
8月5日の昼頃でした。自宅にいた時に空襲警報が鳴り、防空頭巾をかぶり、身の回りのものをまとめた鞄を持って石造りの蔵へ避難しました。蔵は頑丈だったため、家族はおじいさんの指示で蔵の周りをぐるぐる回りながら、敵機から見えないよう隠れました。空襲が一時的に収まった際自宅に戻ると、表の庭に4mくらいの穴が開いていました。爆弾が落ちた跡でした。その爆弾の破片が飛び、屋根が燃え始めていました。おじいさんや姉たちと協力して、庭にあった井戸から水を汲み、バケツリレーで消火活動を行いました。まちのあちこちから火の手が上がり、飛行機が上を飛ぶ中必死に消火し、自宅は焼失を免れました。屋根に隠れつつ上を覗くと、頭上を飛行機が低空30mくらいの距離で飛んで行き、パイロットの姿が見えたのを覚えています。空襲の後、家の周辺は焼け野原となっていました。建物が大きかった銀行やお寺が、わあーっと焼け落ちる光景が、今でも目に焼きついています。

○空襲後の食糧難
その後、空襲で家が焼けて住めなくなった親戚たちが避難してきました。その日からしばらく、10数名と一緒に暮らしました。この時は食糧難の時代で、フスマ(小麦粉の外側の皮)をからいもに混ぜ、だんごのようにして蒸して食べました。他にも、からいもの蔓や石蔵に残っていた食糧を少しずつ皆で食しました。家族で協力しながら田畑を耕し、生活を支えていました。
8月15日、座敷で家族皆が姿勢を正し、玉音放送を静かに聴いた記憶があります。

○今の世代に伝えたいこと
戦争を経験した者として、世界で起きている戦争のニュースを見ると胸が痛みます。戦争の犠牲になるのは市民です。本当に、争いが無い平和な世界であってほしいと思います。皆、一緒の人間なのですから。戦争の悲劇を忘れないように、これから未来を担う子どもたちへ語り継いでいかなければいけないと思います。

■其の2ー空襲と石碑
◆空襲の記憶と戦争遺跡
○空襲
昭和20年(1945)3月18日に海潟が本市で最初の爆撃を受けました。以来、小爆撃が数回行われ、当時は落ち着いて農漁業を営むこともできなかったといいます。

○垂水大空襲
同年8月5日昼頃、まちに空襲警報が鳴り響き、中央地区から海岸沿いに柊原方面に至る住宅密集地帯と軍施設が、焼夷弾と爆弾を交えての大落下、機銃掃射で襲われ、午後5時頃に至る約5時間にも及ぶ大空襲となりました。辺りは焼け野原となり、まち全体が恐怖に包まれました。この大空襲を含めた本市の戦災被害は下の一覧のとおりです。

戦災被害一覧(県統計年報附表)

(引用)垂水市戦災日記

○戦争遺跡
戦時中、本市には軍や戦争関連の施設等が数か所ありました。その場所は現在、史跡として戦争遺跡と呼ばれています。今回は石碑等が設置されているところを中心に、本市の戦争遺跡の一部をご紹介します。

(1)九州海軍航空隊桜島航空基地跡(碑/道の駅たるみず多目的広場)
松ヶ崎国民学校2階教室に本部等配置。学校東側の山に兵舎、海岸より畑地・砂浜に水上機格納庫、観音岬に魚雷整備場等が配置された。

(2)海潟造船所跡(跡/協和地区脇登)
日本郵船系の造船会社。県内には他に鹿児島含め5つの木造船舶会社があったが、海潟では他と違い最大規模250総トン型が製造された。

(3)第六垂水丸遭難者慰霊之碑(碑/旧垂水港)
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(4)垂水海軍航空隊之碑(碑/柊原地区錦町)
兵舎、本部指令室、兵器製作所、練兵場と、西ヶ崎・高尾・権現山に20mm機関砲を有する機銃座、コンクリート製のトーチカ等が設置。沖は5か所に魚雷航跡監視の台場も設置された。

(5)第61震洋隊基地跡(跡/新城麓のまさかり海岸)
米軍の本土侵攻が予想されたため、それに備えて海の特攻兵器「震洋(しんよう)(船首部に爆薬を搭載した、小型のベニヤ板製モーターボート)」の基地(第61震洋隊)が建造された。