- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県垂水市
- 広報紙名 : 広報たるみず 令和7年8月号
■其の3ー戦時中の悲劇
◆第六垂水丸遭難事故
戦時中の悲惨な事故「第六垂水丸遭難事故」をご存じでしょうか。
昭和19年(1944)2月6日、快晴の日曜日に、垂水と鹿児島を結ぶ定期旅客船「第六垂水丸」が、垂水港を出航後、沖合約200mで方向転換する際にバランスを崩し転覆、沈没し、500人以上が犠牲となりました。同船には出征する兵士や一般客、鹿児島市から戦地へ出征する兵士と面会しようと大隅各地から多くの家族が訪れ、定員の2倍を超える700人以上が乗船していました。
現在、同事故に関する資料を垂水市文化会館にて展示しているほか、垂水市史談会と本市が共同で毎年2月、垂水市立図書館にて「第六垂水丸の遭難を語り継ぐ会」を開催しています。今年行われた同会にて、当時事故に遭遇した田㞍さんの貴重な証言を伺うことができました。
■其の4ー当時の証言(2)
◆無我夢中で桟橋へ泳いだ。
田尻 正彦(まさひこ)さん(101歳)鹿屋市在住
大正13 年(1924)3月30 日鹿児島市生まれ/ 16 歳から兵隊に行く20 歳まで、鹿屋海軍第22 工廠に入り飛行機の溶接等の仕事に務める。
○忘れられない悲劇
私が19歳の時でした。鹿児島市にある母親の墓参りに行くため、垂水丸に乗船しました。その日はとても寒く、粗末な切符売り場で寒さをしのいで乗船を待ちました。出征する兵士たちの面会に行く家族が多く、皆めかし込んだりマントを着こんだりしていました。子どもを背負って弁当や荷物を持つ若い母親が多くいました。乗船する際、年配の方や女性、子どもが先に船室に入り、若かった私は最後に乗船し、甲板の一番後ろの左側にいました。
午前9時50分頃、船は桟橋を離れ出航し、後ろ向きで前進後、鹿児島に向かって方向転換すると船が左側に傾き始めました。私は甲板の左側にいたため、真っ先に海に投げ出されました。寒さと驚きで無我夢中で桟橋を目指し泳ぎながら、船の方を見ると、転覆に巻き込まれた方々が取っ組み合いながらもがいている姿を目にしました。私は泳ぎが得意だったことや最初に海に落ちたこともあり、巻き込まれずその場を離れました。しかし、コートを着ていたため泳ぎづらく、寒さで手足も動かなくなり、救助に駆け付けた手漕ぎ船の人に助けを求めましたが「泳いでいけ」と言われ、なんとか必死に桟橋まで辿り着きました。
砂浜に到着すると、町中にサイレンが鳴り響いていて、柊原の海軍さんたちが救助者に人工呼吸を行ったり、地元の青年団、婦人会が協力して救助活動や藁で焚火を起こしたりしていました。砂浜には、亡くなられた方も並べられていました。海を見ると、転覆した船底に上がり、救助を待つ人が見えました。
その後私は、船長の奥さんの厚意で自宅の風呂に入り、その日の夕方に父親が待つ鹿屋市の自宅に帰りました。父親は事故のことを知っており、自分が死んだと思ってガタガタ震えていたと近所の方が教えてくれました。
○悔やんでいること
当日、鹿屋から垂水に向かうバスに乗っていた時、運転手が落とした弁当を拾おうとし、バスが道路沿いの溝に落ちかけました。私は慌てて大声を出し、運転手も気づいて事なきを得ました。しかし、このバスの乗客の多くが沈没事故で亡くなられました。もし、あの時溝に落ちていれば、その後の悲劇を避けられたのではないかと思い、涙が流れました。今でもそう悔やんでいます。
○今の世代に伝えたいこと
兄弟、家族仲良くが一番です。まわりの人を大切に、支え合って私たちは生きています。また、仕事も遊びも一生懸命全力で取り組むことも大切です。今後も私は趣味の水墨画を、全力で続けていきたいと思います。