文化 ひおき歴史街道 No.40

小松帯刀と薩摩琵琶―沈壽官家蔵「伝小松帯刀作薩摩琵琶」
日置市教育委員会社会教育課文化係

今年、日置市は市制20周年を迎えましたが、今年は本市ゆかりの幕末の薩摩藩家老(かろう)「小松帯刀(こまつたてわき)」の生誕190年、そして、没後155年の節目の年でもあります。
天保6年(1835)に喜入(鹿児島市喜入町)領主肝付兼善(かねよし)の三男尚五郎(なおごろう)として生まれた帯刀は、幼少期に琵琶を弾き始めました。昼夜を問わず琵琶に夢中になる帯刀は、執事(しつじ)の安楽八左衛門にいさめられ、涙を流し、琵琶の弦(いと)をかなぐり捨て、琵琶をしまい込み、琵琶を絶ったといいます。
その後、吉利(日置市日吉町吉利)領主小松家を継ぎ、家老となった帯刀は、薩長同盟締結に尽力します。同盟の会合は、幕府方の目を盗むため、琵琶会の名目で行われたといいます。慶応2年(1866)1月20日、薩長両藩の会合後、長州藩代表木戸孝允(たかよし)(桂小五郎:1833〜77)の送別会が京都の帯刀邸「御花畑(おはなばたけ)」で開かれました。この時、薩摩琵琶の名手児玉天南(てんなん)(利純:1846〜1917)の演奏があり、木戸はその感動を漢詩に詠んでいます。
同年、帯刀の子清直(きよなお)(〜1918)が生まれますが、琵琶好きは子にも受け継がれたようで、清直も「根っからの琵琶人」と評されています。
日置市東市来町美山の沈壽官(ちんじゅかん)家には、帯刀の作とされる薩摩琵琶が伝わっています。明治3年(1870)に帯刀は亡くなりますが、慶応3年のパリ万国博覧会で薩摩焼の錦手(にしきで)が好評となり、12代沈壽官(1835〜1906)も、同6年のウィーン万国博覧会で金襴手(きんらんで)大花瓶を出品し人気を博しました。帯刀は、薩摩焼の改良を計画していたとされ、この琵琶も、こうした過程で、沈壽官家に渡ったのかもしれません。

[参考資料]
木戸公伝記編纂所編『木戸孝允文書』8(日本史籍協会)、『鹿児島県史料集』21「小松帯刀搏・薩藩小松帯刀履歴・小松公之記事」(鹿児島県史料刊行会)・26「桂久武日記」(鹿児島県立図書館)、原口泉氏『龍馬を超えた男 小松帯刀』(PHP研究所)、まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会編『日置に、幕末明治維新をたずねる。』(日置市)、高村直助氏『人物叢書 小松帯刀』(吉川弘文館)、越山正三氏・薩摩琵琶同好会監修『薩摩琵琶』(ぺりかん社)、薩摩琵琶同好会『薩摩琵琶の手引き』、桐野作人氏『さつま人国誌』幕末・明治編2・4(南日本新聞社)、町田明広氏「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9(同研究所))、新出高久氏「慶応期西郷隆盛寓居の検討から「薩長同盟論」にいたる」(『霊山歴史館紀要』24(霊山顕彰会霊山歴史館))、市村哲二氏「幕末の政局における薩摩藩家老の動向について―慶応期の桂久武と島津広兼を中心に―」(『黎明館調査研究報告』32(鹿児島県歴史・美術センター黎明館))、深港恭子氏「十二代沈壽官と皇室―十二代沈壽官関係資料を中心に―」(同報告36)、同館『華麗なる薩摩焼 万国博覧会の時代のきらめき:明治維新150周年記念黎明館企画特別展』図録(同展「華麗なる薩摩焼」実行委員会)、『日吉町郷土誌』上巻(旧日吉町)、『東市来町誌』(旧東市来町)