- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県徳之島町
- 広報紙名 : 広報徳之島 令和7年4月号
■亀津の歴史散歩(南区)
今回は、中区から南区にかけての紹介です。
峯窪(みねくぼ)の旧家街からスーパー池山前の道に戻ると細長い横道が通っています。大正時代に県道が整備されるまで、亀津を南北に横断する唯一の道でした。人々が普段亀津の町を通る際は海岸の浜辺を利用しました。亀津の道は、そのほとんどが山側から海岸に向かっているのが特徴で、現在も使用されています。
この裏路地は今も江戸時代の雰囲気を残しています。まず南風園の大きな建物が目に留まりますが、ここは明治の中頃までは空地でマチラント(祭をする所)と呼ばれる広場でした。すぐ隣に亀津森とよばれる聖地があり、ここには江戸時代まで神木屋と呼ばれる小屋が建っていました。広場では、ノロたちが神木屋に宿る神様たちのために踊りを奉納していたのだろうと思います。
南風園の南側に町の合同会館が建っています。ここは昔の代官所で、周囲よりも小高くなっています。以前は立派な石垣で周囲を囲っていました。そこから海側に、道を挟んで東仮屋、前仮屋、上仮屋などの役宅が4軒並んでいました。代官所正面から仮屋の間を海に向かう道は「カヤンババ(仮屋の馬場)」と言いました。東仮屋跡は、後に北区の安住寺跡地にあった小学校が明治21年に移転して、亀津尋常小学校となりました。その3年後に高等科が新築設置され、女児たちが通いだした明治28年にさらに10学級が増築され、数百人の子供たちが通いました。
裏路地を南区のほうへ少し進みます。県道に出て左手に空地があります。その東隣が亀津噯役場(あつかいやくじょう)(明治20年頃までの役場)があった場所です。反対の山側には高千穂神社と豊島森の聖地があり、神社の崖の下には「格護所(かくごしょ)」という牢屋がありました。高千穂神社脇を通って山に向かう道は「麦穂の下り口」と呼ばれていて、三京や伊仙方面に向かう主要道路でした。現在使われている県道は、昭和30年代になって新設されたものです。
県道を横断し、少し行くと南に向かって下る細道があります。そこを進むとT字路にぶつかりますが、この道は丹向川(たんこうがわ)の川底も兼ねています。水路が里道を兼ねる場所は、昔はあちらこちらにあったようですが今はめったに見られなくなりました。
ここから崖横の道に上って左に行くと、谷に下る小道があります。その先には薩摩藩の派遣役人や島の有力者たちの墓地「殿地墓(とうちばか)」があって、墓地の先にある崖道を登ると古くから航海安全を見守ってきた「金比羅神社」が建っています。
次回は、尾母に向かいます。
町誌編さん室 米田博久
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