くらし 【特集】戦後80年、戦時中の徳之島を振り返る。

終戦から80年目となる2025年。戦時中の徳之島の様子を、町史特別編「徳之島学へのいざない」の内容と、当時を経験した方のインタビューとともに振り返ります。

■戦時中の徳之島
昭和16年(1941年)12月に始まった太平洋戦争。
戦時中の徳之島は、国民も物資も国家が統制する「国家総動員法」と、国が学校長と教頭を任命し、軍人が教壇や道場に立って軍事教練などを行う「国民学校令」の下にありました。各学校には「学校報国隊」がつくられ、食糧の増産や物資の生産といった勤労奉仕が義務付けられていました。
昭和18年(1943年)11月、浅間陸軍飛行場の建設が始まり、島内から3000人、島外から千人の労働者が召集されました。食糧の増産計画が作られ、計画達成のために学校の校庭も畑として使われました。翌年6月には1万人の軍人が徳之島に駐屯するようになり、その分の食糧も供出するため、島民は更に増産に追われることとなりました。
昭和19年(1944年)10月、アメリカ軍による、琉球列島を直接攻撃・占領する「アイスバーグ作戦」が始まりました。10月10日、アメリカ軍は沖縄島への上陸を決行する前に空爆を開始。早朝から夕方まで、延べ1396機が沖縄島とその周辺の空港や港を中心に攻撃を行い、一部は徳之島、奄美大島を空爆。この時が徳之島への初空襲でした。浅間の陸軍飛行場を中心に山や亀津の港が攻撃され、苦労して造った飛行場は、空襲で大きな被害を受けて飛行機も失ったことから、知覧からの特攻機の中継地として使用されました。
昭和20年(1945年)1月22日から再び空襲が始まり、沖縄島への上陸作戦が始まった同年3月23日からは、毎日のように空襲を受けました。そして6月23日、沖縄島がついに陥落。その後も7月10日まで徳之島などへの空爆は続きましたが、その頻度は減り、同年8月、終戦を迎えました。
大島支庁の集計によると、昭和20年3月23日から終戦まで、徳之島での空襲による死者は267人、住宅の損失は1584戸に上りました。
また、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて昭和19年6月29日に撃沈した輸送船富山丸は、乗員3730人が死亡。同年9月25日には、徳之島から本土へ疎開するために子どもやその保護者が乗船した疎開船武州丸も、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて沈み、148人が犠牲となりました。

■平田 スエさん(94)
私は徳和瀬で生まれ育ったんだけど、ちょうど学校に行く朝8時頃だったか、大きな音がしてね。後で「富山丸が魚雷にやられた」と聞いて、その船には兵隊さんが沢山乗っていて、陸に上げるために、小舟を持っている人とかみんなでそこへ行ってね。亡くなった人は浜に並べて火葬して、助かった兵隊さんは何百人かいたと思うけど、亀津小学校に泊まってた。集落で野菜をかき集めて、亀津小学校へ持って行って、そこで料理をして、何かしら食べさせていたみたいだった。
当時は食べ物があまりなくて、主食は芋だった。空襲があるから、畑仕事をしていても途中で逃げないといけないでしょ。畑仕事があまりできなくて、芋が大きくならなかった。空襲が無いうちはお米とかの配給があったけど、それも無くなって。戦争が終わってからも。芋があればいい方で、小さいうちから掘って食べてた。味噌汁には芋の葉っぱとか桑の葉とかを野菜のかわりに入れてた。
私には兄がいたんだけど、フィリピンへ出征してね。輸送船が井之川から出ていたから、井之川岳を見ながら行ったんじゃないかな。現地の食糧事情はかなり厳しかったみたい。兄はフィリピンで亡くなった。
空襲も度々あった。家の敷地内に簡単な穴を掘ってて、空襲警報が鳴ったらそこに隠れてたけど、上の土が薄くて、貫通した銃弾にあたって、亡くなった人もいた。このあたりの一帯も焼夷弾で焼かれて。集落の元気な人は手伝いの募集をされていて、飛行場や兵舎を作りに行ってた。飛行場が浅間にあって、夜にそこが上から射撃されているのが、集落から見えた。飛行場で働いている人たちに、食べ物が足りていないということで、その頃は麦を作っていたから、はったい粉団子を作って青年団と子供たちと交代で月に一度ぐらい歩いて届けてた。集落にいる人は、兵舎を作るためのトウジキ(茅葺等の材料)を集めて束ねて、そうしたらそれを兵隊さんが取りに来てた。
戦争の時は、大人も子供も、みんなこのようにやっていたから、無邪気に遊ぶことはできなかったね。

■米谷 義一さん(93)
私は戦争当時は子供だったから、山(さん)のことしか分からないけど。昭和16年12月に戦争が勃発したから、当時私は小学生。朝学校に行ったらまず奉安殿の前に行って拝んでね。そういう時代だった。勉強は、国語とかも勉強したんだろうけど、よく覚えているのは戦争に関係する勉強ばかり。学校の歌も、そういうのだったよ。
山(さん)には兵隊さんが300人くらいいたかな。小学校を兵舎にしていたから、私たちはセンダンの木の下で勉強したりした。兵隊さんが教育を受けるのを子どもながらに見ていて、私も6年生を卒業したら兵隊に行きたいと思っていた。今となっては、何故そう思っていたか不思議なことで。
浅間の空港は毎日上から撃たれていて、ここまで音が聞こえたよ。噂では、昼間に爆弾を落としても翌日には元の空港に戻っているって話だったから、それだけの兵隊がいるとアメリカ側も思っていたんじゃないかな。
山(さん)にもアメリカのグラマン戦闘機が来た。爆弾は一度だけ落とされて、陸に二発、海に一発だった。
食べ物のことと言ったら、島の他のところと一緒で、お芋とか。お米、ご飯とかは、余程じゃないと無かったから。当時私は小学生でしょう。それでも、牛を使って、田植えなんかも、夜に植えて。そしたら、まっすぐに植えたつもりでも、あっちこっち植えてあるから、あくる朝に直したり。それが苦労とか難儀だとは思わなかったね。やらなくてはいけないと思って生活していたから。
戦争が終わったら、山(さん)には兵器を納めているところがあるからアメリカ兵がやってきてね。爆弾とか手りゅう弾とかいろいろあったんだけど、それを捨てに来て。水陸両用の戦車で沖に捨てに行った。それからの集落の生活は、幸いにして、食べ物に困窮してはいなかったね。海で獲った魚を食べたり、豚肉やヤギ肉もあった。
私は子供ながらに戦争を経験したけれど、戦争はもうしたくない、絶対にあってはならないことだよ。