- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県那覇市
- 広報紙名 : 広報なは市民の友 2025年1月号
首里城の復興や戦後の紅型の復活などに不可欠であった資料を収集・寄贈されたことにより、沖縄県・那覇市に多大なる貢献をされた鎌倉芳太郎氏へ敬意と感謝を表すため、1月31日に沖縄県立芸術大学に氏の顕彰碑が建立されます。
■「沖縄の恩人」鎌倉芳太郎
明治31年、香川県氷上町(現・三木町)に生まれ、23歳の時に美術教師として沖縄勤務を命じられ来沖。沖縄県女子師範学校や沖縄県立第一高等女学校にて図画教師をしながら、沖縄美術(建築・彫刻・絵画・工芸)に魅了され、生涯を沖縄研究に捧げ、型絵染(かたえぞめ)保持者として人間国宝にも認定された人物です。
◇鎌倉芳太郎 年表
1898年 香川県三木町で誕生
1921年 文部省から出向を命じられ、沖縄県女子師範学校教諭となる
1924年 首里城正殿の取り壊しを知り、関係者へ進言し、工事を中止させる第1回「琉球芸術調査事業」のため沖縄を訪れる。
1926年 第2回「琉球芸術調査事業」のため沖縄を訪れる。
1927年 東京美術学校の助手となる
1957年 型紙600点を沖縄県に返還し、紅型技法の保存と伝統工芸産業の育成に協力
1958年 第8回日本で伝統工芸展に「琉球紅型中山風景文長着」を出品、入選
1973年 重要無形文化財「型絵染」保持者認定(人間国宝)
1977年 石垣市名誉市民として顕彰
1982年 琉球芸術研究の集大成となる「沖縄の遺宝」を刊行
1983年 84歳で逝去
1984年 香川県三木町名誉市民として顕彰
1986年 沖縄県芸術大学開設に伴い、ノートや写真、紅型型紙などの資料を遺族が寄贈
2010年 香川県山大寺池に顕彰碑が建立
◇鎌倉氏の功績
大正13年3月、鎌倉氏は、東京で目にした新聞で首里城正殿を取り壊して沖縄県社を建てるという記事を読み、急ぎ関係者を通じて工事の中止を内務省に要請しました。その要請を受けた内務省は、すぐに沖縄県庁に工事を中止するよう電報で命じ、首里城は取り壊しの危機を逃れることとなります。
鎌倉氏が首里城を救ったのは正殿取り壊しの一度のみではありません。沖縄戦で破壊された後、首里城正殿復元の動きが始まり、昭和61年に国の事業として首里城跡を中心に県営公園と国営公園を整備する計画が決定しました。この正殿復元に大いに役立ったのが、鎌倉氏が残した写真とノートの資料です。氏の写真、ノートが無ければ首里城の再建は実現できなかったかもしれません。
このほかにも「琉球芸術調査事業」をはじめ、生涯にわたり収集された資料は、沖縄の文化継承に大いに役立っています。
また、のちに自身も型絵染作家として活躍した氏は、紅型研究の第一人者としてその復興に貢献しました。
◇顕彰碑建立の経緯
鎌倉氏の出身地である香川県では、その功績を長く後世に伝えるため鎌倉芳太郎顕彰会が設立され、2010年10月、三木町山大寺池堤防の生家を見渡せる場所に顕彰碑を建立し、併せて記念事業を実施しました。同顕彰会はこれに続く活動として、沖縄県内にも同様の碑を建立する意向を持っており、沖縄県内の関係者へ相談をしていました。
そこで、「沖縄こそ芳太郎の功績に感謝すべき主体である」との考えから、香川県の顕彰会と並んで「鎌倉芳太郎沖縄顕彰会」が設立されました。
そして、氏の資料の大部分を保管し研究を行っている沖縄県立芸術大学の構内に、碑を建立する運びとなりました。
◇鎌倉氏の作品紹介
市民のみなさんに鎌倉氏の功績を知ってもらうため、次号以降、連載で写真をご紹介します。
参考文献:株式会社沖縄文化の杜「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」与那原恵「首里城への坂道」
原稿協力:鎌倉芳太郎沖縄顕彰会
画像提供:鎌倉芳太郎沖縄顕彰会、鎌倉芳太郎顕彰会、那覇市歴史博物館
問合せ:秘書広報課
【電話】862-9942