- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県西原町
- 広報紙名 : 広報にしはら 2025年7月号 No.641
■沖縄戦から80年~西原村民の沖縄戦~
西原は、沖縄戦当時、日米両軍が戦った激戦地でした。では、その頃、住民はどうしていたのでしょうか。
沖縄戦から時を少し遡(さかのぼ)って、昭和19(1944)年8月、西原には日本軍が駐屯(ちゅうとん)するようになりました。その後、東飛行場(在小那覇)や陣地構築(こうちく)等で住民の根こそぎ動員が行われました。また、疎開(そかい)についても、住み慣れない環境へ行くことの厳しさ、疎開(そかい)先の食糧(しょくりょう)不足、駐屯(ちゅうとん)している友軍への信頼感や、貴重な労働力を流出させたくないという軍の有形無形の圧力、対馬丸(つしままる)の撃沈(げきちん)等多くの要因が重なり、県外や北部への疎開は国や県の督励(とくれい)にも関わらず難航(なんこう)していました。
そのような状況で、昭和20(1945)年4月1日米軍の沖縄本島上陸まで、村内には多くの住民が残っていました。4月下旬に日本軍(※(1))から非戦闘員(ひせんとういん)(住民)を島尻へ移動するよう要請(ようせい)を受けた当時の西原村長が、村内に残る住民の壕(ごう)を訪ねて呼びかけ、一緒に島尻へ避難(ひなん)したという記録もあります。また、『西原町史』には、米軍上陸後、各集落の壕(ごう)や墓(はか)で米軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)や爆撃(ばくげき)に耐(た)え、比較的安全な時間を選んで島尻へ避難(ひなん)したという証言が多く残されています。その証言の一つに避難するときの様子が記されているものがあります。「通行には、安全と思われる時刻は、朝未明と夕暮れであった。その時刻になると、まるで蟻(あり)が穴から、はい出るように無数のここかしこの壕(ごう)から数多くの人々が道路に這(は)い出て、仄白(ほのじろ)い暁(あかつき)に長い列をつくった。」※(2)
証言の中には、避難(ひなん)中家族が砲弾(ほうだん)に当たり、亡くなってしまったこと、自身も破片で負傷したこと、避難する途中で多くの遺体(いたい)を見たこと、戦場とはどういうものなのか、その恐ろしさが生々しく綴(つづ)られています。
西原は激戦地といわれ、当時の住民の約47%が亡くなりました。これは、沖縄県全体の戦没率(せんぼつりつ)25%と比べてもかなり高い数字です。そして、『沖縄県史』によると、その戦没者のうち、約68%が南部で亡くなっています。また、生き残った人々も多くが島尻で米軍の捕虜となり、収容所へと送られました。
生き延びた住民がかつての面影を失った西原へ戻ってくるのはそれから1年後の昭和21(1946)年4月以降のことです。『西原町史』には多くの証言が残っています。戦後80年の今、改めて読んでみてはいかがでしょうか。
※(1)山部隊(第24師団)
※(2)『西原町史第3巻資料編2西原の戦時記録』P450下段18行~21行引用
参考文献:
『西原町史第3巻資料編2西原の戦時記録』/西原町教育委員会
『沖縄県史各論編第6巻沖縄戦』/沖縄県教育委員会
お問い合わせ:文化課 文化財係
【電話】098-944-4998