文化 ~戦後80年 記憶の継承 ~ No.2

沖縄戦の終戦から80年を迎えた今日、戦争体験者の減少、戦後世代の増加と相まって、戦争の歴史的教訓が年々風化し、その悲惨さが忘れ去られようとしています。
西原町は、戦争体験者の方々からの貴重な体験談を紹介し、次世代へ継承していきます。

■戦火の中、隠場を求めて
(西原町史 第三巻 資料編二 西原の戦時記録より)
城間栄吉(当時36歳) 農業

●日本軍による壕追い出し
昭和19年の10・10空襲の時、安室部落は爆撃は受けなかったが、那覇が炎上したり、西原製糖工場が爆撃されたりしたので、私たちも一応壕に避難した。南部へ避難する前、最初は自分らの墓(所在地は桃原部落にあるウチュー森(もり))に避難したが、米軍が上陸し、戦闘が激しくなった後、妻方の墓に避難した。ところが、日本兵がやって来て、「この地域は第一線になっていて戦闘が行われるからこの壕(墓)には日本軍が入る。君たちは島尻に避難しなさい。島尻には日本軍の掘った壕があるから、君らはこの壕の代わりに島尻の軍の壕に入りなさい」と言った。私たちはその言葉を信じて墓を出、島尻へ避難した。しかし、島尻には日本軍が交代すると約束した壕はなかった。一緒に避難したのは、私の家族4人に桃原部落の妻方の家族5人、合わせて9人でした。

●移動また移動
桃原の墓を出て大里村の湧稲国(わさなぐに)部落に行った。食料は、米、砂糖、澱粉粉など軽目の物だけ持って行った。湧稲国(わさなぐに)は戦闘もなく静かで、別の家族も一緒になったので、4家族共同で壕を掘り、約1カ月ほど生活していた。しかし、そのうち、米軍が近くまで進攻して来た。最初は日本軍か米軍かわからなかったが、訳の分からない言葉で喋っているのが聞えたので米軍だとわかり、すぐ逃げた。湧稲国(わさなぐに)から具志頭村の与座へ逃げて行って与座で一晩過ごした後、真壁(まかべ)村の新垣部落へ行った。
昼間は米軍機が飛び交っていて危ないので、逃げるのはいつも夕方以後でした。新垣も危なくなったので、今度は高嶺村国吉へ逃げた。国吉からは昼夜の別なく、国吉から別の所へ逃げる人もあれば、別の所から国吉へ逃げてくる人もあり、逃げて行く人と逃げて来る人が入り乱れてどこへ逃げたらいいのかわからないような混乱状態でした。私たちは国吉を出て、今度はまた真壁(まかべ)村の伊敷へ行って山や壕の中に隠れ、更に、糸洲(いとす)へ逃げ、糸洲から喜屋武(きやん)村の福地に逃げた。福地では岩陰で隠れていたが、日本兵が来て、「敵がすぐ近くまで攻めて来ている。ここは第一線になるから君たちは出て行きなさい」と言った。私たちは仕方なく山の中に逃げた。ところが、米軍が私たちの隠れ場所を包囲し、小銃弾をどんどん打ち込んできた。小銃弾で木の枝が圧し折られるやら、子供が負傷するやらで非常に生命の危険を感じたので、ハンカチを振った。そうするとやっと銃撃が止んだ。

●捕虜
米兵が「糸満、お菓子、糸満、お菓子、出て来なさい」と呼び掛けて来た。何人かの者が米兵の所に行ったが殺されなかったので、私たちも手を挙げて出て行き、とうとう捕虜にされてしまった。子供は銃撃を受けた際、負傷していたが、言葉がわからないので、米兵に話すことができなかった。それでも、手真似で子供が負傷していることを伝えると、治療して包帯を巻いてくれた。捕虜になった者たちは、いったん、糸満に連れて行かれ、そこで男と女・子供は別々にされた。そして雨降る中を今度はトラックで宜野湾村野嵩に連れて行かれた。銃撃で負傷した子供は、野嵩で息を引き取った。野嵩(のたけ)から更に山原(やんばる)・国頭(くにがみ)に連れて行かれた。

「西原町史」は西原町立図書館でご覧いただけます。