文化 戦後80年のあゆみ

日本の終戦から今年で80年が経過します。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。

■第4回 貯蓄運動と献納がもたらした勤倹の意識と習慣
昭和12年、中国大陸で戦地が広がり、戦費が国家予算に匹敵する額に増大したことで、町内会や部落会などを通して軍資金の献納、戦時債券の購入、郵便貯金などが奨励されました。戦時債券は、昭和12年11月から郵便局でも売り出され、以降名称を変えながら何度も発行されました。また、昭和13年から貯蓄奨励運動が始まり、目標額が町内会や部落会、貯蓄組合などを通して割り当てられました。貯蓄を促す講演会や映画会も開催され〝間に合わせ生活〟により無駄を省き、副業や内職などで貯金をつくることが奨励されました。また、青年団では毎月貯蓄日を決め、学校では児童が少額の金銭を定期的に学校に預ける〝子ども貯金〟で協力しました。米などの食糧需要から得た収入で貯蓄を増やした北村の大富産業組合は国から表彰され、岩見沢では酒の配給ごとの貯金運動などで貯蓄をつくったと伝えられています。昭和13年に131万円だった岩見沢町民の郵便貯金残高は、昭和16年に225万円と3年間で1.7倍に増加し、市制を施行した昭和18年には7.6倍の990万円に達しました。そのほか、古紙などの廃品回収が始まり、昭和16年からは軍事物資活用協会を通して一般家庭から火鉢などの金属類が特別回収されました。屋外の煙突は土管や陶器製に置き換えられ、岩見沢では商店街を照らしていた鉄製の街灯も撤去されました。銅像も例外ではなく、昭和18年6月、栗沢では山田勢太郎翁(おう)銅像(どうぞう)を見送る壮行式が行われました。
戦局を左右する飛行機の献納運動は全国に広がりを見せ、昭和18年5月のアッツ島玉砕により全道一斉に航空機の増産機運が高まりました。岩見沢では10万円を、栗沢ではそれを上回る20万円もの寄附金が集まり〝栗澤號(くりさわごう)〟の名称で陸海軍に2機を献納、一部資金は〝北海道號(ほっかいどうごう)〟にも充てられました。国債の購入や貯蓄、金属類や飛行機の献納に充てる資金は、いずれも地域の隣保班を通して集められ、寄附金名簿とともに国に報告、表彰されることもありました。こうした活動は、私たちに仕事に励み節約する勤倹の意識と習慣を植え付けました。

問合先:総務課市史資料室(北村支所内)
【電話】56-2001