文化 [特集]戦後80年企画 対岸から樺太を見つめて

◎6月号の同企画において、濱谷悦子さんのお名前に一部間違いがありました。お詫びいたします。

■第3回豊原空襲編
令和7年は太平洋戦争の終結から80年を迎えます。稚内市の対岸に望む旧樺太では、終戦間際に当時のソ連軍が進攻し、多くの人々が戦火に追われ、命からがら稚内へと引き揚げてきました。そこには、家族を失い、故郷を奪われた人々の深い悲しみと苦しみがありました。あの時、何が起こったのか。私たちはその記憶をどう未来へ伝えていくべきか。第3回目は避難者を襲った豊原空襲について西本美嗣さん、吉田欽哉さんの証言を紹介します。戦争の悲惨さ、故郷を追われた切なさ、そして命をつないだ想いに耳を傾けてください。

◆豊原に集まった避難者
西本さんは豊原駅近くに住んでおり、終戦当時は小学3年生でした。
「豊原は札幌のように碁盤の目になった街でした。駅から神社までを神社通り、それを垂直に交差する大きな道を大通りと言います。私の家は大通り南10丁目にあったんです。豊原は樺太の中心都市ですから、色んなものが集まっていました。教育施設だけでも小学校、中学校、女学校、それから医学専門学校、師範学校、ほかにも工業学校、商業学校、全部ありました。戦時中でしたが、すでに電話が自動化していましたよ。ダイヤルで回す式でね。北海道に避難して、まだ自動化されていなく驚きました。」
戦時中にもかかわらず、樺太ではその雰囲気はあまり感じられなかったそうです。しかし終戦直後、街の様子が変わったと言います。
「8月15日(終戦)の翌日くらい。友達が駅前広場に人が集まっていると言うので見に行きました。そうしたら、どうやら国境地帯から逃げてきた避難者がたくさん。役人が寺や学校などの避難場所に、その人たちを振り分けていました。そして20日、西の空が真っ赤になりました。真岡がやられたんです。次の日には真岡からの避難者も駅に集まっていましたよ。」
その頃から、豊原の街は混乱を極めていきました。

◆始まった豊原空襲
「22日の昼食後、おそらく1時過ぎ、戦闘機の音がしたんです。父親が「ソ連が偵察に来たな」と言いました。まさかやられると思わなかったから、窓から覗いたんです。真っ黒な無印の戦闘機が3機。何だろうと思ったら、爆弾を一発、駅に落としました。そこから空襲が始まりましたね。」
西本さんが見た爆撃を、当時陸軍の衛生兵で、現在利尻町在住の吉田さんも目撃していました。吉田さんは国境近くの上敷香陸軍病院に勤務していましたが、終戦時は命令で豊原にいました。爆撃の土煙を確認すると、救護のため、すぐに駅へ向かいました。
「車で向かったのはいいさ。すぐに戦闘機が来て、脅してくる。民間の防空壕に入って、音がしなくなってから外に出ると、車のボディには機銃を受けて、三・四発の穴が空いていたよ。」
西本さんも走って逃げる途中、ソ連機の機銃掃射に見舞われました。
「もっと細い道に逃げればいいものを、みんな大通りに集まって逃げるわけです。川のようになってね。そうしたら、戦闘機が飛んできました。誰かに「みんな伏せろ。」と言われたんです。伏せたら、その上から機銃掃射。戦闘機が通り過ぎたら、また立って逃げるんですけど、運悪く弾に当たった人がいる家族は大騒ぎになるんです。ところがそんなの構ってられないから、置いて逃げるわけです。本当にひどい話なんですけど、あの状況じゃ、そうせざるを得ないんですよ。」

◆爆撃後の豊原駅前広場
駅前から逃げる住民や避難者を横目に、駅に着いた吉田さんが見たのは…。
「土を被って、黙って座っている避難者がいたよ。何だろうとよく見たら…あれは一生忘れられないね。首が無いんだから。おそらく爆風で飛ばされたんだ。家から大きくて重いリュックサックを背負って逃げてきたから、体も横に倒れず、座った状態のままで、腕には男の子を抱いていた。別の方向を見たら、幼稚園児くらいの女の子が一人ぽつんと立っていた。片腕の肘から下が無くなっていたから、すぐ止血をしたよ。「お姉ちゃん、お母さんは。」と聞いても何も言わない。爆音で耳が聞こえなくなったのかな。その子を病院に連れて行きました。」
駅に戻り、救助活動を再開した吉田さんですが、再びソ連機の襲来にあいます。
「すぐに近くの防空壕に入ろうと思ったんだけど、軍曹が「ここはダメだ」と言うんだ。よく耳を澄ませると、中からうめき声。一発目の爆弾で防空壕の中が潰れてしまい、その中にいる人の声だった。すぐに別の地下壕に走ったよ。もしあの防空壕に入っていたら、俺も死んでただろうな。」
ソ連軍は二発目の爆弾を落として去っていきました。
「夕方、帰ってたら玄関の前におにぎりと鮭があってね。食べようとつかんだ手には、べったり真っ赤な血が付いていた。樺太で一番思い出すことは、やっぱり豊原空襲だね。あの時はもう戦争が終っていた。なのに、なぜ避難者が死ななければならなかったのか。」
戦後の混乱もあり、この豊原空襲の死者数ははっきりとわかっていません

◆その後の人生
吉田さんは戦後、ソ連軍によってシベリアで過酷な労働を強要されました。大勢の仲間をそこで亡くし、凍土を掘り、埋葬したそうです。利尻町に戻ってからは漁師を生業とし、町議会議員を務めるなど、地域の発展に尽くし、現在は語り部として活動しています。
西本さんはソ連占領化の樺太で2年間暮らした後、引き揚げました。北海道議会副議長を務めたのち、全国樺太連盟会長に就任。樺太の後世への伝承に尽力され、令和6年に逝去されました。樺太連盟は稚内市に対し、多数の貴重な樺太の資料を移譲され、それらは現在、稚内市樺太記念館で展示しています。
「「ふるさと」って歌、ありますでしょ。最後の章の歌詞「こころざしを果たしていつの日か帰らん」。あれはもう我々にはできない。樺太は、いくら志を果たしても帰れるところじゃない。悲しい島だなと思います。」
西本さんは最後にそう語りました。

問い合わせ:市社会教育課社会教育グループ
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