- 発行日 :
- 自治体名 : 山形県中山町
- 広報紙名 : 広報なかやま 令和7年10月15日号
達磨寺田植踊りは、当町南部の達磨寺集落に保存されてきたもので、発祥の由来は明らかではありませんが、江戸時代の末期には盛んに踊られていたと伝えられています。天保15年(1844年)、「達磨寺田植踊謹慎請状」には次のように記載されていることから、この踊りが若者の興味と関心の的になっていたと分かります。
差上申一礼之事
当村藤太郎円次郎左内富次長内林助弥惣次新吉熊蔵此もの共儀当春中ら於与七宅夜々田植踊の稽古いたし雪消之農業ニ打立候而茂不相止、農業之疲れニ可相成を茂無孝親元之手前忍び出夜々慰ミ居候所、此段御役元ニ相聞へ不埒之至ニ被思召、銘々御詮義之上御理解を以御差留メ被申付候(後略)
とあって、達磨寺村の若者9名が、毎夜踊りの練習に熱中していました。農作業にも差し支えることから、この事情を知った村役人が厳しく叱正しましたが、やがて山形藩の役人の耳にも達して、一同が召し捕えられることになりました。
村役人や五人組惣代、隣家の衆も連署して詫びを申し上げ、ようやく勘弁されました。それ以降は、田植踊りに限らず戯事一切相慎む誓約書を差し出した珍しい文書となっています。ようやく不作凶作から遁れたこともあって、当時田植踊りが盛んに踊られていたことを物語る資料と言えます。
その後の動向をみると、明治時代に文明開化の煽りを受けてやや衰えましたが、大正年間には村の上と下に二組の田植踊りができました。そして年々、村の鎮守の祭礼に奉納されてきました。それが、昭和6年には上下二組を一本化し、達磨寺民謡研究会という強力な組織を作り、面目を一新しました。現在は達磨寺田植踊保存会となって今日に至っています。
■語句の説明
面目を一新する:外見の様子などをすっかり改めること。
※引用
中山町史中巻第10章第4節民俗芸能と娯楽
