文化 最終連載 ーわたしと金山ー No30

林 寛治(かんじ)

■「金山町は世界の中心!? 見て・感じて・考える」
私は昭和30年に高校を卒業して、3度目の受験で運よく東京藝術大学建築科に入学しました。藝大建築の前身である東京美術学校の建築科は大正12年に図案科(現在のデザイン科)から独立しました。欧米と異なり、日本の建築教育は工学部が中心であって、美術系大学による建築教育は昭和40年頃まで藝大以外にはありませんでした。建築士資格の要件として定められていますから、構造・設備各専門の客員教授による授業はありますが、設計デザインを中心に、入学早々から設計実技・専門科目・一般教養科目が同時にスタートする点で、超多忙ながら魅力的な学生生活でした。
イタリアに行くことを志したのは、戦前戦後の欧米映画で見る人や都市、風景への憧れがあったからです。偶然大学3年時に吉田五十八教授が外務省から在ローマ「日本文化会館」の設計委託を受けたと聞き、吉田研究室諸先輩の応援と助言を受けて、現場見習いという口実で旅券を発給してもらいました。
卒業5か月目の8月末に離日。アラスカ経由でコペンハーゲン、アムステルダム、パリと各都市で1、2泊しながら、9月はじめにローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に降りたちました。渡航手続きに骨折って頂いた佐々木嘉夫先輩と、一足先に吉田研究室から派遣された野村加根夫先輩が出迎えてくれ、ひとまず野村氏の寄宿ホテルに同宿しながらのローマ生活が始まりました。佐々木氏から、「はじめの1、2か月は市内を巡り歩いたらどうか」との助言をいただき、午前中は身元引受人ポジターノ氏(Arch.G.Positano)の事務所に通い、午後からは市内中心部を歩き回りました。当時のローマでは13時から16時までシェスタという昼休みの習慣があって、勤め人もいったん帰宅。昼食をして軽く昼寝もできたのです。この時間帯、バール(Bar)以外の店は閉じられて、シーンとした街なみになるのでした。
到着後一か月ほどして、国際学生会館への入居が叶いました。当時日本からのイタリア政府の留学生定員は6人位。若い音楽家、舞踊家を除けば、美術・文学・法律・医学など大学院を出た助手クラスで30歳位の方々でした。国際学生会館は空港と同様、前年の五輪に合わせて新築された二階建て施設で、共同シャワー・トイレと三食付きの個室で月2万円位でしたから、イタリア政府の留学者に対する熱意と力を感じました。セルフサービスの大食堂とゆったりとしたサロンや講堂もあり、別棟に短期旅行者の学生や団体の宿泊が可能になっていました。世界中からの留学生が150人位。各国の友人たちと知り合うにはことかきませんでした。彼らと話していて一番感じたことは、自分の生まれた町があたかも世界の中心であるかのように話すことで、特に統一が遅かったイタリア人ならではの強い郷土愛を感じました。国際学生会館の周辺一帯はムッソリーニ政権のもとで開発され、昭和35年のローマ五輪メイン会場となったフォロ・イタリコという総合運動施設ゾーンでした。サブグランド付きのスタジアムや野外プールも至近にあり、次の五輪を控えていた日本からの訪問客が来た時にはよく泳ぎに案内しました。
昭和36年初めに、日本人画家夫妻の紹介でスペイン人建築家フリオ・ラフエンテ氏(Arch.JulioLafente)と知り合えたのは幸運でした。学生時代に購読したdomus誌で気に入って見ていた「トラステヴェレ大通りの共同住宅」の設計者だったからです。彼はボルドーの美術学校を卒業してからローマに移り、多くの著名な建築家に協力を求められるような立場で、当時は建築技術者であるガエタノ・レベッキーニ氏(Ing.GaetnoRebecchini)が経営する事務所の協働建築家でした。両氏を訪ねて働かせてもらう事が出来ました。ただし午前中は日本大使館で筆耕のアルバイトをしていたので午後のみ勤務することになりました。ローマの中心部にマルチェッロ劇場という紀元前13年建立の古代ローマ劇場遺跡があるのですが、その観覧席構造体を利用して16世紀に建てられた館の一部が彼らの事務所でした。私の仕事はラフエンテ氏が描く流麗かつ力強いスケッチを清書して図面化する作業で、楽しくも非常に勉強になりました。
昭和41年5月にローマのレ事務所を退職して、帰国前の課題として計画していた北欧視察を実行しました。大学同期の日本画家である村松秀太郎を誘って日本から呼びよせ、買ったばかりのVWビートルにキャンプ道具をのせ、6月末にローマを発って北上しました。ミュンヘン・ニュルンベルクから当時の東独領を通過してベルリンに5日ほど滞在、東ベルリンにも日帰り訪問、西に向かって東独領を出たところがVWの本拠地フォルクスブルグ、ここから北上してデンマークに渡り、コペンハーゲンではアルネ・ヤコブセンの建築を見て回りました。スウェーデンを経てフェリーでフィンランドに渡ったのは7月末だったと思います。各国共にオートキャンプ施設が完備されていて全く快適な旅でした。私にとっての北欧ハイライトはフィンランドで巨匠アルヴァ・アアルトの建築を見てまわることであり、村松にとってはオスロと、ストックホルムでエドワルト・ムンクの画を鑑賞することでしたが、双方それぞれに期待以上の感動を得たものです。
旅行を終えてローマに戻り、帰国整理をした後で、今度は11月からギリシャ経由でトルコに行きました。ローマでの友人、都市計画家ハルク・アラタンがアンカラからイスタンブールまで出迎えに来てくれて二年ぶりの再会となりました。彼が参加するコンペ(設計競技)をちょっと手伝うなどしつつ、準備してもらったアンカラの広いアパートで昭和42年を迎え、愛車のVWをイスタンブールから日本に送り出し、私も5年8か月ぶりに帰国したのです。
帰国後は吉村順三設計事務所にて7年間の徒弟時代を経て独立し、やがて金山町の仕事に携わるようになりました。金山で関わった仕事の成り立ちとその背景などを金山人50%の立場で皆さんとの交流を意識しつつ、この場をお借りして記してきました。過去5年間読んでいただきありがとうございました。