文化 写真が語る「いわき」の歴史

■消えた街、新しい街
平(現・いわき)鉄道が敷設されて以降、駅前から真っすぐ三町目を経て、南方に通じるメインの道路開削が課題となっていました。しかし、本町通りの字三町目を横断するには、人家が立錐(りっすい)していて除去するのは至難の業(わざ)でした。
この状況が解消されたのは太平洋戦争でした。日本の戦局は次第に悪化。日本は空襲にさらされるようになりました。昭和20(1945)年7月28日の夜、アメリカ軍によって、平駅前から南方に幅10〜20mにわたり細長く、焼夷弾が雨あられのように落とされたのです。
戦争終結後の戦災復興土地区画整理事業では、幅員30mの駅前通りの建設が採用されましたが、この道路確保によって、字三町目は駅前通りで東西に分けられることになり、以来、本町通りにおけるまちづくりは別個に考えられるようになっていったのです。
(いわき地域学會 小宅幸一)