文化 おしえて博物館-七十-

『江戸時代の野馬追はどれくらい有名だった?』

いよいよ今月末は野馬追です。野馬追といえばテレビ、新聞、SNSなどで紹介され、相応の知名度がありますが、そのようなメディアがなかった江戸時代、野馬追の知名度はどれくらいあったのでしょうか。
そのバロメーターとなるのが、今回紹介する「諸国御祭礼番付」(江戸時代末期)です。これは全国各地の祭礼を、相撲の力士の番付表のようにランキングしたものです。つまり、ランクが高ければ知名度も高い、ともいえます。ちなみに「東之方(ひがしのかた)」(東日本)の大関は山王祭(さんのうまつり)(東京・日枝神社)、「西之方(にしのかた)」(西日本)の大関は祇園祭(ぎおんまつり)(京都・八坂(やさか)神社)です(当時は横綱ではなく大関が最高位)。このような、並み居る全国各地の祭礼の中で、野馬追はどこにランクインしているでしょうか。
野馬追は「東之方」に載っているだろうと探してみると…載っていません。まさかのランク外か…と思いきや、よくよく探すと意外にも中央の「年寄」枠内に「陸奥相馬妙見祭」とあります。これこそが野馬追です。
年寄は、簡単にいえば相撲経験者で興業の役員のこと。今の相撲界でいえば「親方」あたりでしょうか。ということは、野馬追はもはやランクを争うポジションではない、別格の位置だった、ともいえます。古い伝統を持つといわれる行事だからこその位置付けかもしれません。
ということで、この番付表からも、野馬追は江戸時代から相馬名物として知られていたことがわかります。ただ一つだけ、野馬追の日付が「五月中(なか)の申(さる)」ではなく「五月中の酉(とり)」と、間違って記載されているのが残念です…。

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