文化 【連載】昭和村の歴史と文化~第26回~

菅家 博昭(大岐)

◆奥会津の古代(古墳時代)
『昭和村の歴史』(1973年)のなかで、執筆者の会津史学会の山口孝平氏は「最近隣りの金山町にも古墳(こふん)が発見されたからおそらく昭和村にもあろうとは思われるのが、現在ではまだ発見されていない」(30ページ)と書いている。弥生時代・古墳時代を執筆された会津若松市教育委員会の小滝利意氏はこの時代の遺跡がひとつもない、としている(27ページ)。
その『金山町史(上)』(1974年)には東北大学教授の高橋富雄氏が「糠塚(ぬかづか)古墳」について紹介している(122ページ)。また舘岩村の壇原古墳群についても言及している。しかしこれらは古墳ではないことが明らかになっている。
『南郷村史第1巻』(1987年)で日本文化厚生財団医学資料館長の周東一也氏は南郷村の古墳時代について「当村に古墳は存在しない。只見川流域では柳津町から上流には古墳は無いのである。金山町史に糠塚古墳の記事がある。積み石塚であることは確かだが、大志村と川口村の村界を示す「談合塚」であるらしい。確かな証拠はないが沼沢火山の火口原の平地をめぐり、大志村と川口村の争いが永いことつづいた江戸時代の伝承記録があり、その争いに結着をつけるために造られた塚の可能性が高い。ちなみに古墳ならどこかに土師器を出す遺跡がなければならないが、沼沢地区を含め、金山町は今のところ土師器のでる遺跡はない」「(南郷村山口の)村下遺跡からは8世紀の須恵器が出土しているので8・9世紀の村下に住民がいたことは確かである」。
会津坂下町の碩学・古川利意氏による『只見町史第1巻』(2004年)で、「只見川・伊南川流域で、確実に古墳または古墳時代の遺跡が確認できるのは会津坂下町までであって、柳津町から上流に古墳時代の遺跡は確認されていない」としている。また「弥生時代前葉の遺跡はかなりの数に達するものの、これに続く後期の遺跡は今のところ発見されていない」としている。
一方、大川上流の奥会津の中心・会津田島(南会津町)地域では『田島町史第1巻』(1985年)に法政大教授の伊藤玄三氏が書いている。「5世紀から6世紀の古墳時代に該当する土師器・須恵器の破片を出土する遺跡が11カ所確認されており、9世紀ぐらいまでのものと思われている」
以上のように奥会津での古墳は存在せず、また古墳時代の生活の痕跡については会津田島と南郷山口となっている。

さて宇都宮市の栃木県立博物館で2月2日までの会期で開催されていた企画展「死者と生者の古墳時代 下野における6・7世紀の葬送儀礼」を1月19日に観て、荒井啓汰氏の講演も聴講した。予約不要で、150人で会場は満席で入場できないところだった。那須塩原の植木農家・大松園の伊藤夫妻の自動車に同乗しての参加となった。
6世紀の甲塚古墳で発掘された機織形埴輪は2類型あり、地機(じばた)型はこれまでの展示で観ているのだが、今回はじめて「無機台腰機」(かつては輪状式原始機と呼んだ)の実物を観た(写真)。これは台湾などで現在も使用されており、台湾の工芸研究家・馬芬妹氏から寄贈されたものがからむし工芸博物館に収蔵されている。
栃木県下野市の甲塚古墳の埋葬者は女性と推定されており、2種類の機織道具で布を生産していたことが推定されている。
列島の古代の現物貨幣が西では綿(真綿)で、東では布(麻布)で、律令体制以前からのあり方ではなかったか?と言われています。東国の調や庸はもともと麻布が多かったが、沿岸地帯では最初は海産物を負担したが都まで運搬するのが大変だからと軽い布に替えた(『古代史をひらくII 列島の東西・南北 つながりあう地域』岩波書店 2024年、346ページ)。貨幣の意味を持った麻布…それは江戸時代にはコメ(もみ)になる。
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