- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県下野市
- 広報紙名 : 広報しもつけ 令和7年4月号
■第1回「東の飛鳥とは」
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館
下野市は古代東国(こだいとうごく)を代表する古墳(こふん)や下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)・下野国分寺跡(しもつけこくぶんじあと)・尼寺跡(あまでらあと)などが所在する地域であることから、日本の古代史を語るうえで重要な史跡や遺跡の宝庫である奈良県明日香(あすか)村にならい、本市の文化財群を「東の飛鳥」と総称しています。
では、古代政治・文化の中心地であった飛鳥や奈良とどんなかかわりがあったのか?双方の地域に所在する史跡にどのようなつながりがあるのか?など、回を追ってお伝えする新シリーズが始まります。
今回は下野市の歴史的背景をお話しします。
下野市は発掘調査のデータや守り継がれてきた文化財が示すように、はるか昔から穏やかな気候に恵まれたとても住みやすい場所でした。
一番古い住民はおよそ1万1千年前に定住したと考えられる人たちで、彼らが使用した縄文土器(じょうもんどき)(爪形文(つめがたもん)土器※本紙写真1)が出土しています。長い縄文時代の後の弥生(やよい)時代を経て、三王山(さんのうやま)地区に前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)を造った人たちが移住してきます。
古墳時代後期の6世紀後半にはさらに新たな住民が定住したようで、その中には現在の埼玉県北部や群馬県東部から移住してきた人、朝鮮半島から渡来してきた人などがいたようです。この頃にはヤマト政権と全国各地を結ぶネットワークができあがり、多くの人や情報が東国へも行き来したようです。
仏教伝来から1世紀を経て、飛鳥時代後半の600年代後半には、東国各地でも寺院が建立されましたが、中でも下野薬師寺は東国を代表する規模の寺院として建立されました。その背景には、大宝(たいほう)元(701)年に当時東アジアの先進地であった唐(とう)の法令を模倣して作成された大宝律令(たいほうりつりょう)の編さんに深くかかわった、下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)を輩出した下毛野一族の勢力基盤が当地にあったことが考えられます。700年代初頭になると、中央政府による対東北政策などの関係から下野薬師寺に国費が投入され、壮大な寺院へと改修されました。680年頃の創建段階、720年代の大改修期においても中央から技術者が投入されて下野薬師寺が建設されたことを、出土する瓦の文様や、正倉院文書(しょうそういんもんじょ)の記録が物語っています。
栃木市に所在する下野国府(しもつけこくふ)は、藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいじょうきょう)と東山道(とうさんどう)で結ばれており、モノやヒト、情報が常に往来していました。現在は東海道新幹線や飛行機でおよそ600kmの距離を移動しますが、当時は上野(こうずけ)(群馬)-信濃(しなの)(長野)-美濃(みの)(岐阜)-近江(おうみ)(滋賀)を経て都へと向かい、駅馬を乗り継ぎながら東山道を経由しおよそ5日で都に行った記録も文献から読み取ることができます。
都が置かれた飛鳥や奈良とは距離が離れていても決して遠く無縁の地ではなかったのです。
・爪形文土器…拡大すると、爪でつけられたような模様があります。これは、まだ縄を撚よることができない人たちが作った土器で、縄目ではなく親指の爪でつけたような模様が外側につけられています。