くらし 【戦後80年・蕨市平和都市宣言40周年】変わらぬ平和への思いを未来へ(1)

今年で終戦から80年、そして蕨市平和都市宣言から40年の節目を迎えます。平和を願う変わらぬ思いを、これからも未来へつなぐため、今月の特集では平和について考えます。

明治時代に起きた日清戦争から太平洋戦争の終結まで、日本は多くの戦争を経験しました。特に太平洋戦争が日本の社会や経済に与えた影響は大きく、戦争のために国民生活は厳しく統制されました。戦争が激しくなるにつれ物資が不足し国民は困窮。また、戦火により民間人を含む多くの犠牲者が出ました。
軍需工場が複数あった蕨は、昭和20年4月から5月にかけて、3回にわたり空襲に見舞われました。1回目は、4月12日の正午頃。錦町5・6丁目付近からさいたま市の辻にかけて、16個の1トン爆弾が投下されたといわれています。2回目は、13日の夜から14日の朝にかけて、爆弾と焼しょう夷い弾だんにより、南町2・3丁目付近から現在の北小学校までの約1キロメートル、幅200~300メートルの広範囲が火の海となりました。3回目は5月25日の午後10時頃。錦町の民家3戸が焼失しました。これら3度の空襲による被害は死者約50人、罹り災さいした家屋は400戸に上り、県内では熊谷に次いで2番目の被害となりました。
同年8月15日に戦争が終結してから、今年で80年の節目を迎えます。この間、日本は平和な時代を過ごすことができ、当時のことを直接知る世代は少なくなりました。これからも平和への思いを末永く未来につなぎ、戦争の悲しみを二度と繰り返さないためには、戦争の記憶を語り継ぎ、風化させないことがたいせつです。次ページでは戦中・戦後を蕨で過ごした横山和子(よこやまかずこ)さんにお話を伺いました。

■Interview 戦争の記憶 横山和子さん(90歳・中央4丁目)
「思い出話をする同級生もいなくなってしまっていたので、久しぶりに当時のことを思い出しました」と話す横山さん。戦中・戦後の蕨の話を聞きました。

○戦争の影響は小学校にも
昭和10年に生まれてから、27歳の時に結婚を機に蕨を離れるまで、塚越に住んでいました。その後、40歳代で蕨に戻って来て、今は娘夫婦と暮らしています。私が子どもの頃はまだ、塚越は田畑が広がるのどかな地域でした。塚越稲荷(いなり)社の近くに住んでいましたが、周りに高い建物がなかったので、家から京浜東北線が走るのが見えました。
蕨第二国民学校、今の東小学校に入学したのが昭和16年のことです。この年、太平洋戦争が始まると、学校生活にも年々戦争の影響が色濃くなり、終戦が近づく頃には毎日防空頭巾をかぶって通学。空襲警報が発令されるとその場で道に伏せて警報解除を待ちました。無事に学校に行けた日も授業はなく、みんなで近所の畑の手伝いに。あとは、塚越稲荷社で竹やりの訓練もしましたね。小さな子どもが竹やりで敵の兵隊をやっつけようなんて、今となってはばかばかしく、悲しいことです。

○空襲警報におびえる日々
家では夜間に空襲の標的になるのを防ぐため、電球のかさに布をかぶせて、光が外に漏れないように暮らしていました。そして、空襲警報が聞こえると、急いで防空壕(ごう)へ。庭に掘った穴にトタンをかぶせただけの防空壕には電気もなく、中は真っ暗。祖母と両親、私たちきょうだいの8人家族が入ると、ぎゅうぎゅうで身動きも取れません。そんななかで警報が解除されるのを待っていると、だんだんと恐怖が募ってくるものです。幸い、家の近くに爆弾が落ちることはありませんでしたが、三和町(みつわちょう)や土橋(つちばし)に焼夷弾が落ちた時は、遮る建物もない時代のことですから、我が家の方まで、「たすけてー!」と叫ぶ声が聞こえ、とても恐ろしかったのを覚えています。

○これからも平和を願って
終戦は小学4年生の時ですが、それからもしばらくは食糧や衣料品の配給制が続くなど、日本中が貧しい時期が続いたので、戦争が終わったと本当に感じるようになったのは、数年たってからのことです。
当時のことを語れる古い友人は少なくなり、私より年が若い人たちは、空襲や戦後の物不足を知りません。今、日本が平和であることはすばらしいことですが、若い人たちには、かつてこういう悲しい時代があったことを忘れず、未来の子どもたちが安心して暮らせる平和な世の中を守ってほしいと願います。

問合せ:福祉総務課
【電話】433・7753