文化 ちょうなん歴史夜話

■長南開拓記(78)~長柄・埴生郡衙はどこに~
中央(朝廷)―国(令制国)―郡―里(郷)という「国郡里制」では、郡は地方民を直接的に統治する行政機構になります。郡のトップは「郡司」で、国司が中央から派遣される官人で、任期制であるのに対し、郡司は地方豪族の世襲が原則で、任期がない終身制でした。
郡司が詰める役所は郡衙もしくは郡家といい、政務を行う郡庁、農民から徴収した正税や、農民に貸し付ける出挙などの稲を保管する正倉、その他の建物群で構成されていたと考えられています。日本全国では約五九〇の郡衙があったとされ、これらの中には発掘調査である程度の具体像がわかっているものもありますが、およその所在地すらわからないものも多く存在しています。発掘調査等で郡衙であると判定され、保存状態や保護体制がしっかりしているものは国の史跡に指定されていますが、関東地方の国史跡の郡衙跡は、茨城県と群馬県に各三件、栃木県と神奈川県に各二件、埼玉県に一件あります。今のところ千葉県と東京都にはありませんが、千葉県には県指定史跡の郡衙跡はあります。我孫子市の日秀西遺跡では相馬郡衙の正倉の一部とみられる掘立柱建物群が見つかっています。この建物群は一般の集落跡の掘立柱建物のように、建物外壁のみに柱穴を建てるのではなく、一間ずつ碁盤目状に柱を建てる総柱の建物が基本形です。それらが整然と建ち並ぶ景観は、郡司の権力を示すように壮観で威圧的なものであったのでしょう。そのほか、下総国では印旛郡栄町の大畑1.遺跡(埴生郡)、上総国では、山武市の嶋戸東遺跡(武射郡)で郡衙跡の一部とみられる遺構群が見つかっています。また、上総国府跡候補地の一つでもある市原市の郡本遺跡群は市原郡衙の比定地でもあります。
さて、長生郡の元となった長柄郡と埴生郡ですが、長柄町には国府里(こうり)の地名があり、郡衙跡比定地の地名には、「郡・こおり」の文字や読みを含む事例も多く見られるため、この国府里を長柄郡衙の比定地とする説があります。一方、埴生郡衙は、そこまで有力な候補地は今のところなく、謎に包まれている状況です。

◇国府里交差点付近。
この地区には広い平地はないが、北総台地との接続部であり、現在でも台地から下りてきた道路が合流する「交通の要衝」である。上級官庁の上総国府との連絡という点から見ても、郡衙跡所在地として有力候補地である。
※写真は本紙をご覧ください

(町資料館 風間俊人)