- 発行日 :
- 自治体名 : 東京都新宿区
- 広報紙名 : 広報新宿 令和7年8月15日号(第2508号)
区では、さまざまな平和啓発イベントを行っています。
これまでに開催したイベントで、区内在住者に語っていただいた戦争体験談を紹介します。
■戦争体験談(1)〜特攻隊(とっこうたい)として出征(しゅっせい)した体験(たいけん) 15歳、決死(けっし)の覚悟(かくご)で特攻隊に
近藤伸一(こんどうしんいち)さん
(終戦時 15歳)
▼親孝行おやこうこうしたい一心いっしんで特攻隊に志願しがん
尋常(じんじょう)高等小学校、現在の中学校の卒業が近づいてきたころ、私は進路(しんろ)に悩(なや)んでいました。当時の日本は、政治・経済・教育全てが軍国主義(ぐんこくしゅぎ)の中、「息子が戦地に行くことが家の誇(ほこ)り、親孝行」という世間(せけん)の風潮(ふうちょう)でした。私は農家の長男として、とにかく親孝行をしたいと考えていました。
学校の先生に相談すると、軍隊への志願をすすめられた上、「近藤は、陸軍(りくぐん)の戦車学校に行ったほうがいい。最難関(さいなんかん)の予科練(よかれん)に合格するのは難(むず)かしいから」と言われたのです。負けず嫌いの私は、「何だと!ならば海軍に合格してやる!皆(みな)の憧(あこが)れの七つボタンをつけるんだ」と、勉強に励(はげ)み体を鍛(きた)え、3回もの試験を通り合格しました。しかし、両親は反対すると分かっていたため黙って受験したのでした。
昭和19年5月、ついに召集令状(しょうしゅうれいじょう)が届くと、何も知らない両親はショックを受けた様子で黙っていました。出征を拒(こば)めば、非国民(ひこくみん)・国賊(こくぞく)だったからです。
出征の日、私は、「本日より、一旦入団(いったんにゅうだん)の暁(あかつき)には、二度とこの土を踏(ふ)まない覚悟であります!」と叫(さけ)びました。見送りに来た多くの人の拍手(はくしゅ)と万歳三唱(ばんざいさんしょう)が響(ひび)く中、振(ふ)り返ると小さな妹を抱いた母が呆然(ぼうぜん)と立ち尽(つ)くしていました。それでも母は泣きながら私に「伸一、達者(たっしゃ)でな」と手を握(にぎ)りしめたまま離(はな)しません。私は胸(むね)が張り裂さけそうで、声を発することができませんでした。母のその手の感触(かんしょく)は、今も忘れることはありません。
▼15歳、両親へ形見(かたみ)と遺書(いしょ)を
昭和20年8月13日、自分の最後の姿(すがた)を写真に撮り、形見として爪・髪の毛が集められ、両親へ遺書を書きました。私は満15歳、日本のために命を捨(す)てる覚悟を決めました。
8月14日、激戦(げきせん)の地・沖縄に向かうための輸送船(ゆそうせん)が舞鶴(まいづる)港に現れません。不安と混乱(こんらん)の中、8月15日の終戦を迎えました。後で分かったことですが、乗るはずだった船は途中で爆撃(ばくげき)され沈没(ちんぼつ)してしまったそうです。
敗戦(はいせん)に沈(しず)む10月、両親の待つ新潟に戻(もど)りました。特攻隊として国のために命を捨てると決意したのに、使命(しめい)を果(は)たせず無事に帰ってきてしまった私は、生きる意味を失っていました。時が経つほど苦しみは深まるばかりでした。
その後、縁(えん)あって上京(じょうきょう)、そこで人々が苦しい中でも懸命(けんめい)にもがき前向きに生きる姿を見て、私ももう一度自分の人生を生きてみようと立ち上がりました。何事も真面目(まじめ)に誠実(せいじつ)に取り組み、ガムシャラに生きてきました。
15歳で死ぬはずだった私は、95歳になりました。毎日、生きていることに感謝(かんしゃ)し、支えてくださる皆さんに感謝し、これからも、命ある限り自分の体験を語っていこうと決意しています。
■戦争体験談(2)〜埼玉県大宮で空襲(くうしゅう)を体験 焼夷弾(しょういだん)の炎(ほのお)から逃(のが)れて
近藤滋子(こんどうしげこ)さん
(終戦時 13歳)
▼軍事訓練一色(ぐんじくんれんいっしょく)の青春時代(せいしゅんじだい)
私の青春時代は、なぎなたや竹やり・草刈(くさか)りなど、軍事訓練の記憶(きおく)で塗(ぬ)り潰(つぶ)されています。
毎月1日と15日は、女子学生が必勝(ひっしょう)のハチマキ姿で隊列(たいれつ)を組み、日本は神の国だから必ず勝つと、「撃(う)ちてし止(や)まん」「八紘一宇(はっこういちう)」と声を張り上げて叫びました。「お国が勝つまでは」を合言葉(あいことば)に贅沢(ぜいたく)は敵と見なされ、日常生活の細部(さいぶ)に至るまで我慢(がまん)我慢の日々でした。
▼空襲で焼け落ちた家
昭和20年3月の東京大空襲、毎日、東京方面の空は赤く焦(こ)げたようでした。そして4月、ついに大宮にもB29(びーにじゅうく)が襲来(しゅうらい)、駅の車両基地(しゃりょうきち)を狙った爆撃が開始されました。駅前の一角(いっかく)に住んでいた私たち家族は、必死(ひっし)で逃げた防空壕(ぼうくうごう)の中から、焼夷弾が間断(かんだん)なく降(ふ)ってきて辺(あた)りが火の海になっていく様子を見ていました。「命が助かってよかった」と言う両親の声に振り返ると、屋根(やね)も柱(はしら)も真っ黒に焼やけ落ちた我が家がありました。その中で使えそうな畳(たたみ)を重ねて雨風(あめかぜ)を避(さ)け、家族で肩(かた)を寄せ合い暮らすことになったのです。
配給制度(はいきゅうせいど)の中で、サツマイモの蔓(つる)が一番のご馳走(ちそう)でした。終戦後の空虚(くうきょ)な日々の中で、私たち庶民(しょみん)は必死に生きてきました。
私は人の人生を翻弄(ほんろう)し悲惨(ひさん)な目に合わせた戦争が嫌(きら)いです。戦争は人を不幸にします。その戦争を起こさないためには、私たち戦争体験者が体験を語り、戦争の悲劇(ひげき)を伝えていかなくてはなりません。家族・お友達・地域(ちいき)の皆さんと共に平和をつくり、日本から世界へと広げていきましょう。