文化 すぎなみビト 久保田朋子 杉並光友会(原爆被害者の会)(1)

消えることのない原爆の記憶。二度と繰り返さぬよう伝え続けていく

プロフィール:久保田朋子(くぼた・ともこ)昭和12年東京生まれ。小学1年生の終わりに東京大空襲に遭い、それをきっかけに祖母が暮らす広島へ疎開。8歳の夏に爆心地から2.5kmほどの祖母宅で被爆した。戦後は東京へ戻り、結婚後住み始めた杉並で、平成15年杉並光友会に入会。原爆の恐ろしさ、平和への願いを区内の小中学生などに語り続けている。令和3年より同会会長も務める。

■幼少期を過ごした練馬から、縁故(えんこ)疎開で広島へ
─久保田さんはもともとは東京にお住まいだったそうですね。
幼少期を過ごしたのは練馬で、両親と、兄が2人、姉が1人いました。自宅があった住宅街の程近く、今は環七通りが走っている場所は、一面の麦畑でとてものどかなところでした。この練馬の家に越してきた年の暮れに太平洋戦争が始まりました。

─どのような経緯で広島への疎開を決めたのですか?
開戦後1年ほどは身に迫る危険を感じることはありませんでしたが、日増しに空襲が激しくなり、国民学校(当時の小学校)へ入学した昭和19年、同級生の家に爆弾が落ちたんです。そのころ、国は学童疎開促進要綱を決定しました。そして昭和20年3月10日に東京大空襲があり、これはいよいよ危ないと、両親はまず私と下の兄を祖母の暮らす広島市へ疎開させました。「おばあちゃまのところへ行くから大事なものだけ用意しなさい」と言われ、慌てて支度したことを覚えています。その後、仕事で東京を離れられない父だけを残して、上の兄・姉、身重の母も広島に来ました。

■家族で過ごした楽しい夕べ。翌朝に原爆が落とされた
─疎開後、原爆が投下されるまでのことを教えていただけますか。
6月には弟が生まれ、広島は空襲もなかったので穏やかな日々でした。ところが東京にいる父が突然「市内も危ない」と、私たちを広島市から離れた田舎に再疎開させたんです。祖母は疎開を拒んで残りました。そんな中、姉が体調を崩して、広島市の病院で診てもらうために再び祖母の家を訪れたのが8月5日。久しぶりに食事らしい食事が並ぶ食卓を家族で囲み、とても楽しい時間を過ごしました。その夜、空襲警報のサイレンが鳴ったので念のため近くの京橋川へ避難しましたが何も起こらず、満天の星空のもと帰宅しました。

─翌朝8月6日、お祖母さまの家にいるとき原爆が投下されたのですね。
朝起きると、祖母と上の兄は既に外出していました。母は姉を病院に連れていく支度をしていて、留守番をする私たち兄妹に「空襲警報が鳴ったらお蔵の中へ入るのよ」と言いました。座敷で庭を眺めながら聞いていると、突然パーッと、真っ白とも銀色とも言えない光に包まれたと同時に、私は次の間まで爆風で飛ばされて気絶しました。「ごめんなさいね」と言う母の声で気が付いて、促されるまま立ち上がると耳の後ろから血が出ていました。急いで止血してもらい、みんなで京橋川の川原へ避難したんです。

─原爆投下後、久保田さんが見たのはどんな光景でしたか?
川原は人で溢れかえり、子どもを呼ぶ母親の声や人々の泣き声などが飛び交っていて。爆心地から2・3km程のところにある御幸橋の方からは、火傷した人や血を流す人たちが大勢歩いてきました。船着場の方に着いたとき、「水、水、水が欲しい…」と声がしたのでその人を見ると、顔とは言えないくらい腫れ上がり、目は線だけ、鼻の凹凸もなくなり唇はめくれ上がっていました。祖母の向かいの家に住む広島県立第二中学校のお兄さんのお母さんが隣に立っていたので「かずそうさんなの?」と尋ねると、悲しそうに横を向いてしまいました。

─言葉にできないほど悲惨な光景だったと想像します。
母は爆風で脇腹に裂傷を負っていて、船着場に着いた後、倒れる寸前で救護班の兵士に支えられて陸軍病院に運ばれて行きました。弟を託された姉と下の兄と私は、惨状の中で泣く気力もなく、ただその場に立っていました。しばらくすると、祖母の家に下宿をしていた軍人のお使いで来たという兵士が私たちをリヤカーに乗せて兵舎に連れて行ってくれました。がらんとした兵舎に何時間いたか分かりませんが、傷の処置をしてもらった母が迎えに来て、祖母の家に戻りました。兵舎にはその後、大勢の怪我人が運ばれ、庭には山積みの死体がいくつも並んでいたと聞きました。翌日になり、原爆投下時に勤労奉仕に出掛けていた祖母は亡くなっていたと分かりました。