文化 【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

■末森(すえもり)の合戦に向かう佐々成政(さっさなりまさ)を迷わせた/田畑兵衛(ひょうえ)(生没年未詳)

兵衛は戦国時代末の武士です。兵衛は、父主水(もんど)とともに、能登守護(しゅご)畠山(はたけやま)家の家臣三宅家秀(いえひで)に仕え、能登・越中境に広大な山林が与えられていました。田畑家の由緒書では主水が能登で戦死したので、兵衛は出家し沢川(そうごう)(福岡町沢川)に移ったとされます。
1584(天正12)年3月、羽柴秀吉と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康が争う「小牧・長久手(ながくて)の戦い」が始まると、当初秀吉に従っていた越中の佐々成政は家康らと結び、秀吉方の能登・加賀の前田利家・利長と対立します。
同年9月6日、成政は2万余(諸説あり)の大軍で加賀・能登境の重要拠点である末森城(宝達志水町(ほうだつしみずちょう))を攻めるため富山城を出陣します。成政は木舟城(福岡町木舟)に入ると、兵衛を呼び寄せ、末森城への道案内を命じます。
兵衛は前田氏に心を寄せていたので、直ちに息子を末森城へ報告に行かせ、自らは案内人となって成政に従うふりをします。兵衛はわざと道でもない回り道や難所などへ佐々軍を誘い、迷わせてから末森城へ逃げ去ると城主の奥村永福(ながとみ)に報告します。9日、成政は何とか宝達山を越え坪井山(宝達志水町)に本陣を構え、末森城へ攻め寄せます。10日、永福から急報を受けた利家は金沢を出陣し、松任城の利長と津幡で合流。11日、佐々軍の背後を奇襲して勝利しました。
戦後、兵衛は利家よりその功績が賞され、先祖伝来の広大な山林が保障されました。のち子孫は代々十と村分役(むらぶんやく)の「山廻役(やままわり)」を務めました。(仁ヶ竹主幹)

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