文化 【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

■全国に名を知られた女流俳人 沢田はぎ女(じょ)(1890~1982)

はぎ女は西五位村三日市(現福岡町三日市)の農業・長沢幸次郎の二女として生まれました。本名は初枝。1906年、福田村和田(現和田)の銀行員・沢田弥太郎(1883~1950)に嫁ぎました。夫は「岳楼(がくろう)」と号する俳人であり、和田の西光寺住職・寺野守水老(てらのしゅすいろう)や筏井竹門(いかだいたけのかど)らが結成した俳句会「越友会(えつゆうかい)」に属していました。はぎ女も句作を始め、夫や守水老らに師事しました。はぎ女の実力は上達し、1907年から1912年まで「国民新聞」(東京新聞の前身)俳句欄を中心に『ホトヽギス』などに盛んに選句され、選者の高浜虚子(たかはまきょし)や松根東洋城(まつねとうようじょう)など日本を代表する俳人から最上級の讃辞を受けました。また『新春夏秋冬』、『ホトトギス雑詠集』などの雑誌・句集に600句以上が収録され、全国にその名を知られました。
しかし、女流俳人の少なかった当時、はぎ女の句は夫の代作との噂がたつと、夫と姑に育児・家事に専念するよう厳命され、1913年、はぎ女は句作を断念します。はぎ女は、中央俳壇に彗星の如く現れて消えた「幻の女流俳人」とされ、地元俳人らに中傷されたり、ついには「はぎ女架空説」までささやかれるなど注目を集めました。俳人の池上不二子は1957年、著書ではぎ女を紹介。更に直接はぎ女にインタビューをしてその実在を証明して汚名を晴らし、1963年には『はぎ女句集』(329首収録)も編集しました。その顛末(てんまつ)は作家・吉屋よしや信子によって1965年、雑誌に「はぎ女事件」として詳しく書かれました。
代表句に「死に絶えし家に隣りて冬夜かな」、「そなさんと知っての雪の礫(つぶて)かな」などがあります。(仁ヶ竹主幹)

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