文化 ふるさと散歩道

■第371回 文化財編(48) 乱世を駆けた百(もも)の民草と攻防の記
応仁元年(1467)、御百姓豊縄に立町郷の田畠・屋敷・原野が与えられた頃、足利将軍家と管領(かんれい)斯波・畠山両氏の家督争いに幕府の実力者である細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)が介入し、全国の守護大名を巻き込む応仁の乱が始まりました。主戦場の京都は荒廃し、戦火は守護代や在地領主(国人)が力を伸ばす地方に拡大。文明9年(1477)に乱が収束した後も戦は続き、越前では守護代の朝倉氏が戦国大名へと発展しました。
天文元年(1532)に朝倉氏の重臣魚住氏が代官を通じて百姓豊綱らに下した書状には、彼らが「隠田(領主に租税を納めない田地)」摘発に貢献したことが記されます。さらに2年後、豊綱の川崩れの訴えを認め、忠節に応じて扶持(ふち)(俸禄)を与えることを記して発給した書状からは、在地有力者と朝倉氏家臣との結びつきを垣間見ることができます。
さて、織田信長が朝倉氏攻略に動き出すと、鳥羽城の主・魚住景固(うおずみかげかた)は織田方に寝返ります。しかし、天正2年(1574)、同じく寝返った富田長繁(とだながしげ)が魚住氏を謀殺。続いて一向一揆勢が長繁を討ち取り、さらに越前に侵攻した信長が一揆勢を制圧して鯖江市域の大部分は柴田勝家の支配下に入りました。こうして長きにわたった越前の乱世はようやくその幕引きを迎えたのです。
(文化課 藤田彩)

◇平成30年度指定の市指定文化財
馬場家文書(杉本町)
糺野お清水(糺町)