文化 歴史は未来の羅針盤 温故知新

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字蔵王(ざおう)
日野町の東、日野谷の平地と綿向山に連なる山地の境に位置する大字蔵王は、明治22(1889)年の町村合併に伴って成立しました。
江戸時代には異なる村として北蔵王村と南蔵王村に分かれ、領主もそれぞれ別に推移し、明治時代を迎えています。その領域は、日野川の源流が山地に入る袋状の谷間にまとまっていて、村の形からも元は一つの村であったことがうかがえます(『滋賀県の地名』)。

◆金峯神社(きんぷじんじゃ)と修験(しゅげん)
蔵王という地名は、金峯神社(蔵王権現社(ざおうごんげんしゃ))に由来するといわれています。金峯神社は、綿向山修験に関連し、延慶(えんきょう)元(1308)年に吉野・大峰(おおみね)地域の修験の本山である金峯山寺(きんぷせんじ)〈奈良県吉野町〉で祀(まつ)られている蔵王大権現の分霊(ぶんれい)を勧請(かんじょう)したものと伝わります(「近江與地志略(おうみよちしりゃく)」)。
綿向山修験が盛んであった中世には、大字熊野や大字西明寺とともに北蔵王村の金峯神社が山岳信仰の拠点として広く信仰を集めたといいます。
また、古くは蔵王堂とも称された金峯神社は、15世紀末に蒲生貞秀(がもうさだひで)が音羽城に居城を移した後は、音羽城に関連する軍事的な役割をもつ拠点であったとも考えられ、蒲生家との結びつきを深めたようです。
文亀(ぶんき)3(1503)年の音羽城合戦では、4月21日に蔵王堂にも兵火(へいか)が放たれた(「馬見岡綿向神社文書」)との記録もあります。

◆蔵王の米石(こめいし)と石造品
日野町内に残る中世の優れた石造品に用いられている石材は、そのほとんどが米石と呼ばれる細粒黒雲母花崗岩(さいりゅうくろうんもかこうがん)です。湖東地域を中心に広く流通したと考えられており、中世の蔵王は、その米石の産出地として知られていました。
米石は、硬質で石の肌が細やかなため表面が大きく傷まず細かい細工が可能で、風化しにくいなどの特徴があります。産出場所は、日野川の支流である勝手谷川(かってだにがわ)の谷筋「かったい谷」が知られていましたが、現在は蔵王ダムにより水没しています。
日野川に架かる米石橋の左岸沿いに平坦地があり、通称「イシノトリコバ(石の取り小場)」という採石地があったと伝わることや、中世石造品の未成品や失敗品などが当地に残されていることから、大字蔵王を拠点として「蔵王の石大工」と呼ばれる集団が活動していたことがわかります。
室町時代後期になると、蔵王での石造品生産が急速に衰退し、安政(あんせい)5(1858)年銘の金峯神社の手水鉢(ちょうずばち)を例外として、米石の使用はなくなっていきました。
蔵王に残る代表的な石造品として、臨済宗永源寺派寂照寺(じゃくしょうじ)〈蔵王〉境内の薬師堂前に石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)と約2メートル隔てて並ぶ石造宝塔(ほうとう)があります。
石造宝篋印塔は、もともと金峯神社の参道入口にありましたが、道路の拡張工事により大正3(1914)年に現在地に移り、昭和36(1961)年、重要文化財に指定されています。また石造宝塔は、昭和37(1962)年、町の指定文化財となっています。両者とも鎌倉時代後期の作品で、町内でも古い時代の石造品です。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
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