文化 歴史は未来の羅針盤 温故知新

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字寺尻(てらじり)
大字寺尻は、日野地区南部に位置し、北東で小井口、南東で鎌掛、南西で清田、北西で木津と接しています。字域中央を大きくカーブしながら西流する日野川と、日野川の支流南砂川が字域東部で合流し、集落は日野川の北側に形成されています。
地名は、字域南部の安土山にかつてあった朝日寺(あさひでら)の裏門にあたることに由来すると伝わります(『滋賀県の地名』)。
寺尻は、風呂流(ふろながれ)遺跡から縄文時代草創期の「有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)」が出土するなど早くから生活の痕跡がみられ、古代から中世にかけて日野谷一帯にあった荘園「日野牧(ひののまき)」の一部として推移しており、朝日寺遺跡(ちょうじつじいせき)からは中世の石仏等が見つかっています。
江戸時代後期に編さんされた『蒲生旧趾考(がもうきゅうしこう)』によると、かつては小井口・木津・野田(日田)とともに「原郷(はらごう)」と称され、天文(てんぶん)17(1548)年、蒲生氏により日野川の流路が付け替えられた後に分村したとされています。慶長(けいちょう)18(1613)年から幕末に至るまで、旗本日野氏が領主として治めていました。

◆御代参街道(ごだいさんかいどう)と茶屋町
集落南側の日野川沿いには、脇往還(わきおうかん)(脇街道(わきかいどう))である御代参街道が通っています。この街道は、東海道土山宿(甲賀市)と中山道小幡(おばた)(東近江市)の間の約36キロメートルを結び、室町時代には、湖東地方と伊勢国(三重県)を結ぶ山越えの道として利用されており、寛永(かんえい)17(1640)年、春日局(かすがのつぼね)の通行をきっかけに街道として整備されました。
街道の通る字「前川原(まえがわら)」にある数軒の町並みには、かつては茶屋(茶店)などが並び、伊勢代参を終えて日野へ帰ってきた人々を迎える「坂迎え」の行事が行われていたことから「茶屋町」と呼ばれています。

◆分岐点にある道標
集落からの道と街道が合流する場所に地蔵堂があり、その前に方柱型の立派な道標があります。この道標には
右 長徳寺(ちょうとくじ)百くわん音へ一丁
ひのかち道
左 たが北国道
文化四丁卯歳三月
中井氏建立
と刻印されており、文化(ぶんか)4(1807)年に、二代目中井源左衛門光昌(なかいげんざえもんみつまさ)が建立したことがわかります。右に進めば長徳寺・日野方面へ、左へ進めば多賀・北国へ通じることを示しており、街道を北へ向う旅人への案内です。

◆光臨寺(こうりんじ)と長徳寺
寺尻には、浄土真宗本願寺派の光臨寺と黄檗(おうばく)宗の長徳寺があります。
光臨寺は、永正(えいしょう)元(1504)年に開かれた道場が開基であり、山門は文化元(1804)年に初代中井源左衛門光武(みつたけ)が寄進したものです。
長徳寺は、蒲生氏郷の曽祖父・高郷(たかさと)に嫁いだ、愛知県常滑(とこなめ)市大野を拠点として大野水軍を率いたことで知られる佐治氏出身の妻の建立です。長徳寺には、後補がありつつも古風な構造で、穏やかな顔立ちが特徴の平安時代後期造立の木造十一面観音立像(りゅうぞう)があり、墨書から、江戸時代に奈良県葛城(かつらぎ)市の寺院から移されてきたことがわかります。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008