- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府大阪市港区
- 広報紙名 : 広報みなと 令和7年7月号
■港晴地域
港区中部、安治川河口左岸に位置する港晴エリア。港地区復興土地区画整理事業で2メートルの盛土を含む基盤整備が行われ、港湾労働者の住宅地として栄えました。もとは八幡屋新田の一部でしたが、昭和43(1968)年に町名が「港晴」になりました。その地で永年に渡り、氷屋の事業を営む畠中さんに、港晴での暮らしを振り返っていただきました。
◇二度の大型台風を経験
畠中さんが疎開先の愛媛県から港区に戻ってきたのは、14~15歳の頃。戦後10年ほど経った昭和30年代のことでした。当時の住所は三条通一丁目一番地。「その頃は地盤が今より2~3メートル低くて、そこを市電が走っていました」と振り返ります。
高潮対策等のため区内では昭和23(1948)年から盛土の工事が始まりましたが、昭和36年(1961年)の第二室戸台風ではまだ工事が完了しておらず、市電の路線がまるで川のようになったそうです。「水がすごかったですね。埠頭まで海の様子を見に行ったら、岸壁すれすれまで海面が上がっていて。これはあかんと思って走って帰ったら波が追ってきて、ものの2~3分で畳が浮いて腰まで浸かりました」。
昭和25年(1950年)のジェーン台風は、祖母の葬儀のため港区に滞在していた際に遭遇。「水がなかなか引かず、ボートで移動していました。まだ子どもだったので、果物屋さんから流れてきたミカンやリンゴを拾ったのを覚えています」と、当時の記憶を語ります。
◇時代と共に変化した氷屋の商い
畠中さんの家は、祖父の代から続く氷屋。「母方の祖父ですが、厳しい人でした。娘婿だった父が跡を継ぎ、私が三代目。今は息子が四代目を継いでいます」。現在は氷以外にも燃料や包装資材なども幅広く扱っています。
電気冷蔵庫やクーラーがまだ普及していなかった当時、氷屋はとても忙しく、あちこちの家庭に氷を配達していたといいます。「家に風呂がありませんから、みんな銭湯に行くんです。その帰りに汗をひかせるため、かき氷を食べる。夏場は、夜11時ぐらいまでかき氷用の氷を運びました」。生活の中に氷が欠かせなかった時代、区内には30軒以上の氷屋があったとか。その縄張りを仕切っていたのが、畠中さんの祖父でした。「町の顔役というか、その頃はどこの町にもそうやって仕切る人がいたんですね。気の荒い連中も多い中、うまくまとめてやっていました」。
昭和45(1970)年に開催された万博では、日本館に氷を卸したこともあったそうです。しかし、電化製品の普及によって、氷屋の軒数は徐々に減少。ここ数年はコロナ禍の影響もあり、現在は畠中さんのところを含め、2~3軒を残すのみとなっています。
◇願いは、明るく住みよいまち
令和6(2024)年3月末まで、港晴連合振興町会会長を務めていた畠中さん。手が足りないから手伝ってほしいと言われて地域活動に関わったのが50代のことでした。「最初は名前だけでいいと言われたんですけどね。どんどん頼まれることが増えました」。それでも、これまでの経験を振り返って「周りがいい人ばかりで、みんな助けてくれました」と笑顔で語ります。最後に、これからの港区に期待することについて、お聞きしました。「私もいろいろな時代を経験してきましたが、無心でここまでやって来ました。どんな時代でも、その時代の波に乗っていくことかなと思います。
我々がああして欲しい、こうして欲しいというより、若い世代の人の考えがあると思います。今よりさらに明るく、住みよいまちになってくれたら嬉しいですね」。
◇畠中元さん
昭和15(1940)年、父の赴任先であった広島県の海軍官舎で生まれ、生後3ヵ月で母の実家がある大阪市港区へ。戦時中は愛媛県に疎開し、義務教育を終えて帰阪。祖父が創業した氷屋「中塚屋」を継ぎ、業界団体の副理事長を務める。地域では港晴連合振興町会会長を長く務め、現在も三津神社氏子総代会長として地元に貢献している。