- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府大阪市港区
- 広報紙名 : 広報みなと 令和7年10月号
■八幡屋地域
八幡屋エリアは港区南西部に位置し、江戸時代に八幡屋忠兵衛が開発した新田から発展した地域です。戦前には海運景気で賑わい、港湾労働者の町とも言われました。今回は、地域の暮らしの中心を担ってきた八幡屋商店街について、八幡屋商店街振興組合前理事長の角さん、現理事長の伊藤さん、八幡屋市場の髙木さんにお話を伺っています。
◇戦後の復興から始まった商店街
八幡屋商店街は戦後の復興市場から始まり、昭和24(1949)年に八幡屋市場へ再編されたのを機に発足しました。その頃に野田から引っ越してきたという角さんは、「商店街の中をトラックがバンバン走ってました」と当時を振り返ります。その後、盛土による地盤のかさ上げや区画整理による道路の拡張が行われましたが、商店街の姿はほぼ変わらず。伊藤さんが営む「光文具店」も同じ場所にあるといいます。
隣接する八幡屋市場、港中央市場も合わせて組織化し、昭和51(1976)年にはアーケードを設置。その頃は近隣にお店が少なく、商店街は大いに賑わったと言います。「あちこちから自転車で人が来て。お客さんがすごかったんですよ」と髙木さん。自転車を停める場所もなかったほどで、「大変でしたけど、今となれば懐かしいですね」と角さん。商店街にとって、とても良い時代でした。
◇赤い椅子がつなぐ、人と人
近年は、近隣に大型スーパーなどができた影響で客足は減少傾向に。角さんは「消費者の気持ちになったら、ワンストップで買い物できるスーパーが便利なのはわかります」と理解しつつも、商店街に賑わいを取り戻そうと努力を続けています。その取組みのひとつが、「八幡屋バル」や「八幡屋まつり」といったイベント。過去には「大阪ごちそうマラソン」という大ヒット企画も生まれました。
大規模なイベントだけでなく、日常的な工夫も行っています。店舗前に置かれた赤い椅子には、高齢者の方が座って話している姿が見受けられ、買い物途中に30分ほど話し込む人も。「ここには買い物だけでなく、人と話すことを楽しみに来られるんです」と伊藤さん。赤い椅子は、商店街が人と人をつなぐ場であることを象徴しています。
とはいえ、椅子が定着するまでには紆余曲折があり、「ベンチを置いたらそこで勝手に宴会されたり、大きな植木を置いたら犬のトイレになったり(笑)」。試行錯誤しながら、商店街の在り方を模索してきました。
◇変わりゆくまちと商店街のゆくえ
ここ数年の課題は“役員のなり手不足”。商店街内にもマンションが建てられて店舗数が減っている上、組合に入らない店舗もあると言います。「魅力ある組合を作らないといけないけど、なかなか…」と伊藤さん。それでも最近は新しい店舗が加入するなど、少し明るい兆しも見えています。
髙木さんが「八幡屋商店街の歴史は、港区の歴史そのもの」と言うように、戦後の復興から高度成長期の賑わい、そして高齢化やコロナ禍の影響を受けて変化してきた八幡屋商店街。その未来について、角さんは「僕は100年先はいないので(笑)。でも、日本の人口が減っている中で、どう国力を保つのか、そこは気になります」と話します。伊藤さんは「夢洲にIRができたら、従業員の住まいがこの辺りにできるのでは。そうなると、街自体が変わっていく気がします」と語り、髙木さんは「民泊も増えているので、国際化を進める上でルールをどう定めるかが大切です」と締めくくりました。