くらし 浪速区制100周年プレ企画 ルックルック なにわ区(1)

■第9回 幸町地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目にあたり、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第9回では、幸町地域の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。

参加者
後列左から 谷正一さん、幡多区長
前列左から 千葉 優さん、大澤 滋さん
大澤 滋さんは、令和7年9月にご逝去されました。心よりご冥福をお祈り申しあげます。
1969 昭和44年 地下鉄千日前線開通記念の切符

■幸町を襲った2度の空襲
▽区長 大澤さんは戦前の生まれとお聞きしました。

▽大澤さん 私は1932 昭和7年に幸町1丁目で生まれて、高台 たかきや尋常小学校に入学しましたが、戦争が始まって、母の里の姫路に疎開しました。1945 昭和20年3月、学童疎開していた児童のうち6年生と先生方は卒業式があるというので、式の2、3日前に疎開先からこの幸町に帰ってきて、明日はいよいよ卒業式と、着る服などを枕元に用意して寝た夜に、あの大空襲に襲われたと聞きました。

▽谷さん 幸町は3月だけでなく6月にも空襲があって、私の父の家はその6月の空襲で焼けてしまいました。
戦災を免れた幸町5丁目 現在の幸町3丁目あたりの写真 1975年頃

▽大澤さん 私は小学校の卒業証書をもらっていません。いつだったかピース大阪で、読売新聞かどこかの主催だったと思いますが、大阪市民で、卒業証書のない人は授与しますという会がありましてね。それに参加しましたのでピース大阪の卒業証書は持っています。6、7人でいただきました。もちろん正式な卒業証書ではありませんが、高台小学校の名前が書かれていました。

◇深堀り 高台 たかきや小学校
1872 明治5年に創立、その後、1945 昭和20年3月の大阪大空襲で校舎の大半が焼け落ちました。1946 昭和21年3月、日吉小学校に合併されたのを機に廃校となり、1959 昭和34年には焼け残った校舎の一部も取り壊されました。悲惨な戦争と戦後の困難であった体験を風化させないために校舎跡地には1988 昭和63年8月に記念碑が建立されました。高台小学校記念碑建立記念誌より

▽千葉さん 大澤さんの先祖は昔、お医者さんだったんですよ。

▽大澤さん 緒方洪庵 1810から63年、江戸時代後期の医師、蘭学者の生きていた時代にここで医者をしていました。当時は、今の相撲の番付のように、医者の番付もありましてね。うちの先祖の名前もその番付表に載っていたようです。

■美味しい幸町の水
▽千葉さん 以前、酒店を営んでおられたかたのお話では、ご先祖さんはここで酒樽を作っていたそうです。幸町通りに面している家の庭にはたいてい井戸があって、とてもきれいで美味しい水がとれたので、堀江にあった酒蔵はその水でお酒を作っていたそうです。堀江と幸町は昔からそういうつながりがあるんですね。
また、幸町通りにはたくさん材木問屋があって金持ちが多かったと聞きました。女の子が生まれて生理が始まると、最初の生理があった日に道頓堀川の水を汲んできて、櫛を水につけて髪を梳いてお祝いする風習があったそうですよ。

◇戦前の生活
幸町の家は住居兼店舗で間口2間半、深いうなぎの寝床のような家であり、2階建てであった。私が物心つく時分には、もちろん、電気・ガス・水道はあったが、釣瓶井戸があって冷蔵庫がわりに使っていた。なおトイレはくみ取り式で、近郊の農家のかたがくみ取りにきて、代金がわりに大根など季節の野菜を置いていったという記憶がある。
1927から45 昭和2から20年6月の空襲まで幸町5丁目にお住まいだった廣瀬英雄さんの手記より

▽区長 そんな風習があったとは。昔は道頓堀川の水も、きれいだったんでしょうね。谷さんは戦後の生まれですか。

▽谷さん 両親が戦後すぐに結婚して、1947 昭和22年に僕が生まれたんですが、空襲で家が焼けてしまって住むところがありませんでした。羽曳野に道明寺という尼寺があって、昔からご縁があった関係で、僕が2歳になるくらいまで仮住まいをさせてもらっていました。その後、幸町に戻ってきました。