- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府大阪市浪速区
- 広報紙名 : 広報なにわ 令和7年1月号
■かつての幸町のまち
▽区長 子どもの頃の幸町はどんな様子だったのでしょうか。
▽谷さん 幸町通りの道路は戦前、木レンガでできていましたが、戦争で焼けてしまったので、その後はアスファルトを使って舗装されていました。でも所々、アスファルトが剥がれているところがあって、10センチ角くらいの木レンガが見えました。
また、昔は馬力 ばりきといって馬が荷車を引いていました。道頓堀に沿って北側に大きな木材せり売り市場がありましたので、そこから木材を運ぶためによく馬力が通っていました。幸橋を渡るのに馬の蹄 ひずめが滑って転倒してしまうこともありました。当時の材木屋はわりと儲かっていたので、すぐにトラックに変わりましたが、馬力は僕が中学生の頃までありました。
1967から68 昭和42から43年ぐらいまで、幸町には材木屋さんがたくさんありました。幸町通りには製材所や材木屋、銘木(めいぼく)屋 注1 色や形、材質などが希少で、独特な趣を持つ木材を扱う店、市売り問屋 注2 大きな需要に応えるために各産地から木材を仕入れる専門店 など木材関係の会社が65社ほどありました。
丸太は川に浮かべておいて、それを引き上げて製材すると木材がよい具合に乾燥するので、道頓堀川には丸太筏(いかだ)がたくさん浮かんでいました。木材関係の仲買は幸町通りに多く集積していましたが、材木屋が多かった関係で、木工機械屋さんも多く集積していました。
◇深堀り 幸町材木町
道頓堀川の改修後 1615年開さく完了、船着き場として300年を超える歴史があり、九州や瀬戸内海方面から運ばれた大阪城の石垣材などの荷着場でした。現在の日吉橋の名称も豊臣秀吉の幼名にちなんでつけられたといわれています。その頃より幸町の材木・木炭問屋があり、各地からの集荷場所として栄えました。浪速区史より
▽区長 道頓堀川はどんな様子でしたか。
▽谷さん 僕が幼稚園の頃くらいまでは堤防がなかったので、川で泳ぐ人もいました。一部の材木屋さんはレクリエーションとしてカヌーも持っていたので、それで遊んだりもしました。
大きい台風などが来ると川から水があふれて、川沿いの会社の事務所は大きく浸水しました。その時に事務所の窓ガラスから外を見たら、まるで水族館にいるみたいだったように思います。水が引いて事務所を見に行くと、フナやドジョウ、タナゴやらなにやらいっぱいいました。1955 昭和30年頃に第1次の防潮堤ができるまではそんな状態でした。
1953 昭和28年の13号台風の時は浸水したと思いますが、風も大変強く感じました。当時、家曳きといって家を土台からジャッキで持ちあげて10メートルほど家をずらす予定でした。台風が来た時は家の2階にいたんですが、ちょうどジャッキで家を持ちあげた状態だったので、とても揺れたのを覚えています。
▽区長 幸町は、北は道頓堀川に面しており、西側には木津川が流れています。
▽谷さん 木津川には名村造船や佐野安船渠などの造船所が多くあったので、大正橋のあたりには船具屋がたくさんありました。船具屋は荷物を集めるのが上手で、船に積み込む生活用品、例えばマッチとかろうそく、料理をするためのザルや布団、毛布、枕など何でも扱っていました。
▽区長 木津川には大正橋がかかっており、その北東詰めに安政大津波の碑がありますね。
◇深堀り 安政大津波の碑 幸町3丁目9番
1854 嘉永7年11月の大地震による大津波の被害は甚大でした。その模様を記録し後世に対する戒めを伝えるのが、大正橋東詰 北側にある1855 安政2年7月建立の安政大津波碑です。そこには大地震が起きた場合には、必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
▽谷さん 大地震両川口津浪記として地震津波の戒めのために建立され、幸町3丁目西振興町会さんを中心に今でも亡くなったかたの慰霊の催しを毎夏、行っておられます。お花も手向け、石碑に書かれているように後世に役立つようとの思いをつなげていく活動や清掃活動をずっと続けて、今日に至っています。